大学時代、私はサッカー部に所属していた。同期で男子部のキャプテンを務めていたのが、今回のインタビュイー・増田湧介、通称:まっすーだ。
プロサッカー選手を目指していたけれど、紆余曲折あって現在はフランスで調香師(香水をつくる人)になるべく修行中だという彼。
調香師ってなんやねん。そもそも、なんでその道に進むことにしたの…?
大学を卒業してから6年。改めて、増田湧介の人生について根掘り葉掘り聞くことにした。
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香水の本場で学ぶ意味
久しぶり〜!後ろに見えるのはピアノ…?
久しぶり!香水の原料となる香料を並べてる棚なんだけど、形がオルガンっぽいから「オルガン」って呼ばれてる。あながち間違いじゃないよ(笑)
フランスでの生活はどう?語学学校に通ってるんだよね?
そう!ビザが必要だったから語学学校に通いつつ、合間をぬってグラースっていう香水の聖地で香水の勉強をしてます。
香りはどうやって学ぶの…?
例えば、香水を目を閉じて嗅いでみて、どういう光景が浮かぶかを言語化する訓練なんかをしてるよ。
言語化に正解はあるの?
ないよ。日本人とフランス人では感じ方が違うし、その違いこそが求められているものでもあるんだよね。
それに「バラの香り」と一言でいっても色んな香りから構成されてるから、香りを切り取って「これは花弁の香り」「これはフルーティーの香り」って勉強していく。
これまで香りを「学ぶもの」として捉えたことなかったんだけど、どこを目指して勉強してる?
「何が美しいか」を知ることかな。
本場の土地に接して、食事みたいに吸収して初めて「これが美しいもの」だと認識できると思ってる。とにかくここにいることで、本場で何が美しいと思われていて、何が良いと思われているかを身体に覚えこませないといけない。本物を作るにはそれが必要。
今すぐに日本に帰って調香師として軌道に乗ったとしても、それは香りを評価されてるんじゃなくて、単に「フランスで修行してきた人が日本でブランド立ち上げた」っていう点が評価されているだけだと思う。ヨーロッパにも認められる本当にいいものを作ることができるまでは帰れないな。
まっすーの言う「本物」って何だろう?
まだわからない。少なくとも、本物はずっと時代を超えて残っていくものだと思う。フランスにはそういう香水がいっぱいあるんだ。
それは同じ香りが求め続けられてるってこと?
うーん。今と昔じゃもちろん求められてることは違うと思うんだけど、評価が変わらずに、リスペクトされ続ける感じかな。
例えば着物。着物は布を身体に合わせるから、身体が大きくなっても着られるし、子にも孫にも受け継ぐことができるよね。その上、着物の美しさや貴重さってワンシーズンで終わるものではないじゃん?
でも、服づくりが工業化されて、大量生産されて、身体を布に合わせる文化に変わっちゃってる。身体も大きくなるし流行も変わっていくから、下手したらワンシーズンで捨てられる。
それは香りにも通じる部分があると思う。
世間的にも、「今、この香りを出せば大ヒットする」っていうのは必ずある。でも俺は、後世にも引き継いでもらえる「いいもの」を作りたいし、これから来るであろう「使い捨てが流行らない時代」に備えたいと思ってるよ。
なるほどね。確かに、大量消費の時代を経て、サステナブルなものが評価される時代になっている実感はあるなあ。
純粋にサッカーを楽しめていた時代
それにしても、4年間サッカー部で一緒の空間にはいたはずなんだけど、ほとんどまっすーのことについて知らないんだよね。なので、28年ほどさかのぼってお話を聞かせてください。
静岡の田舎で生まれて、近所のお兄ちゃんたちとひたすら外で遊んでたかな。
まっすーが走り回ってるの想像できるなあ。その頃から、自分でも運動神経いいなって思ってた?
うん。幼稚園で毎回かけっこが一番だったから。
母親が言うには、当時は好奇心旺盛で、泳ぎ方知らないのにプールに飛び込んだりとかしてたらしい(笑)
えええ…。その旺盛さとか、運動能力がサッカーにも生かされることになるんだね。
仲のよかった近所のお兄ちゃんがサッカーしてたのがきっかけで、小学3年生でサッカーを始めることに。
静岡ってサッカーが盛んな地域だから、身近にサッカーがあったってのもあるのかな?
確かに。元サッカー日本代表の高原直泰選手とかも地元一緒だしなあ。
あの頃は、何も考えずにサッカーができていたからめちゃくちゃ楽しかった。小学生の時は身体が大きくて、足も速かったから一人だけズバ抜けてサッカーがうまかったんだよね。
その頃の将来の夢は、すでにJリーガーだった?
中学2年の時にU-15の日本代表に選ばれたんだよね。その時に初めて、プロになることを意識し始めた。全国的にもすでに有名だった宇佐美貴史選手とかと一緒にサッカーして、俺も頑張ればプロになれるって感じられたからさ。
それがきっかけで、グッとプロが近くなったんだね。
学校の勉強はほどほどにしてサッカーに打ち込んでたの?
こう見えて、勉強はしっかりやってたんだよ。生徒会やってたし…「ザ・優等生」みたいな感じかな。
優等生か〜。サッカーチームでもキャプテンだった?
小学生から大学まで、ずっとキャプテン。
小学生の時は、チームで一番サッカーがうまかったから選ばれたんだけど、中学以降はなんでキャプテンになったのかは正直よくわからないや。
キャプテンにもいろんなタイプがいると思うのね。俺の場合はとにかくピッチでひたすら頑張って、姿勢で引っ張っていたって感じ。人知れず慕われちゃうタイプ(笑)
ピッチ上での振る舞いが評価されてたんだね。まあ、確かにまっすーは「人たらし」なところある気がする。
「外からどう見られるか」はめちゃくちゃ気にしてた。誰からも怒られたくなかった。
あ、その感覚はすごくわかる。怒られた経験があんまりないからこそ、怒られることに対しての恐怖があるんだよね。
そう。大したことないことでも怒られたら、一巻の終わりのように感じちゃってた。こういう性格が、のちのち自分の首をしめることになるんだよね。
あの時、プロになっていたら
高校はサッカーが強いところへ進んだの?
勉強のレベルが高くて、かつ、俺が入ったことでやっと全国に出られた!っていうサッカーレベルの高校を探してた(笑)
別の言い方をすれば、人の目を気にしていたから、勉強を全くせずにサッカーに振り切る勇気がなかったんだよね。
「自分がサッカー部を強くしたい」ってことね?
それそれ。それで清水東高校に進学することに。清水東は過去に全国優勝したことがあるけれど、最近は全国出場できてなくて、条件にぴったりだった。
なるほど。宣言通り、全国に出られた?
…強くできず終わりました。最高が県ベスト8。
県ベスト8とはいえ、サッカーが上手いといろんな大学やクラブからオファーあったでしょう?
実は、地元の喫茶店でJリーグのチームからオファーをもらったのね。プロになりたかったから、お願いしますって即答したの。
でも結局、親に「大学で4年間サッカーやった後にJリーグから声がかかれば本物だし、呼ばれなかったらどっちにしてもプロになってもだめでしょ」って言われてオファーを断ったんだよ。
今思えば、あれが分岐点だったなと思う。あのとき、プロの道に進んでいたらどうなっていただろうって今でも思う。
それで大学に進学することになったんだね。どんなふうに大学を選んだの?
正直、どんな大学があるかって全然知らなかった。進路希望表とか出してたはずなんだけど、全く記憶がない。
慶應義塾大学との練習試合で、当時のコーチにAO入試を受けないかって言われて、言われるがままにAO入試の準備を始めたんだよね。あの練習試合がなかったら、慶應には進学してなかったな。
それで慶應に入学したんだね。
たしか、1年生で唯一まっすーがスタメンだったよね?
たまたま、ボランチのポジションが空いてたっていう運もあったと思う。
でも、チームへの順応は得意かも。
人の目を気にしてたから、監督が何を求めてるかがわかるの。それを忠実にやっていただけ。大学1年の時は余計なことを考えずにサッカーできてたから、とっても楽しかった。
逆に言うと…学年が上がるにつれて何が変わっていたってこと?
自分が引っ張らなきゃいけないと思い込んで、得意じゃないのにまとめようとしてた。それでプレーに集中できなくなって、3年生のシーズンは年間4回くらいしか試合に出られなかったんだよなあ。
3年生の時、まっすーは副将で、4年生になったら主将になることも決まってたよね?その立場で試合に出られないのはキツイだろうなあ。
その時初めて、「キャプテンってなんだろう」ってめっちゃ考えた。
「キャプテンだからやらなくちゃ」「ずっと試合に出てきた俺が引っ張らなきゃ」なんて余計なことを考えるようになって、今までできていたプレーもできなくなっていったんだよね。
それに、「監督に気に入られなきゃ」って気持ちになってしまったのもよくなかった。「勝利」とか「自分がプロになる」っていう本質からずれてしまって。
負のスパイラルだね。
そんな時、ふと「なんで自分のためじゃなくて、監督とかコーチのためにプレーしてきたのかな?なんで人のために生きてきたのかな?」って思って。
そんなこと、今まで一度も思ったことなかったのに。それからはチームのためじゃなくて、自分のためにプレーしようって思ったの。思考が180度変わって吹っ切れて、晴れ晴れした。それから、試合にもまた出られるようになってさ。
それまで、めちゃくちゃ生きづらい生き方してた。親とか世間体とか気にせずに、高卒でプロになることを諦めなくてもよかった。人の目を気にしていなかったら決断できたことがいろいろあったと思う。
病気の再発が人生を変えた
大学卒業後のことはどう考えていた?
プロサッカー選手になる、それだけを考えてたよ。
でも、プロサッカー選手になるためには大学3年生のシーズンが一番大事なのね。スカウティングも3年次の活躍で評価することが多いし。その大切なシーズンでこけちゃったから、案の定強いところからは声が掛からなかった。清水エスパルスからは声かけてもらったんだけど、話が進展しなくて。
そっか。不調シーズンが勝負の時だったんだね。
しかも4年生になったとき、小学3年生の時に発症した「海綿状血管腫」っていう脳の血管の病気が再発したんだよね。実は、医者からは「サッカーやめてください」とも言われてた。
そうだったんだ…。
脳の病気ってことは、ヘディングも本当はダメなんじゃない?
そうそう。でも、毎年MRI検査をすることを条件にサッカーを続けてたの。
大学4年の夏の検査で出血してることがわかって、1ヶ月休んだんだよね。インカレ出場がかかった早慶戦には出られたんだけど、結局それが現役最後の試合だったんだよなあ。
それ、私応援に行ってた試合だ!まっすーが点を決めて、勝ったんだよね!
そうそう!あのゴールは最高だったよ。インカレ出場も決まったしね。
でも、インカレ初戦の前に、病気の発作で夜中に気絶しちゃったの。一人暮らしだったから、あのまま目が覚めてなかったら死んでたと思う。運よく次の日に目が覚めたけれど、苦しくて暴れ回ってたみたいで、部屋はぐちゃぐちゃだった。
インカレでアピールしてプロにいくつもりでいたのに、それができなくてそのまま引退。医者にはサッカーやめましょうって言われたし。
そう言われて、卒業後のサッカーは諦めたの?
全く諦められなくて、治ったらやるつもりだった。Jリーガーになれなくても、カテゴリーが下がってもいいからサッカーを本気でしたいと思ってた。
でも、1ヶ月の入院を経て病院の外に出た瞬間に、「もし、道を歩いている途中に倒れたら俺はどうなるんだろう?」って、いつ倒れるかわからない状況が急に怖くなってしまって。
だから退院した日に、サッカーは諦めて就職しようかなって思ったんだよね。
一大決心だよね。プロサッカー選手になることをずっと夢見てたのに。
そうだね。就活浪人したんだけど、就活の仕方もよくわからないから、とりあえずOBに話を聞きにいって、かっこいいと思える会社をひたすら受けた。その中で内定をもらえたのが、大手の飲料メーカーだった。
最初はどんな仕事を?
東京で営業。でもね、全然楽しくなかった(笑)
サッカーで監督の意図を汲み取るのが得意なら、営業先にも応用できそうだけど…。
そうでもなかった。営業ってマイナスからのスタートだし、「慶應卒」なんてバレようもんなら「てめえみたいな坊ちゃんの人生なんて糞食らえだ」って言われるし。
営業で一番苦労したのは?
合理的じゃないことかな。商品の良し悪しじゃなくて、どれだけ回数会って仲良くなったかとか、どの会社がお金を積んでくれるかとか…。市場の動向なんて関係なしに決まっていくのがスッキリしなかった。
それで会社を辞めるに至ったんだね。