『ミシュランガイド富山・石川版2016』で唯一の三ツ星を獲得した富山県の「日本料理・山崎」が、富山の店舗を閉じて東京に出店されたと聞き、これはぜひ食べにいかねば、と思った。
個室の障子戸が開くと、そこは調理場だった。真剣な眼差しで盛り付ける、店主・山崎浩治さんの姿が見えた。丹精込めて丁寧に作られたお料理の一つひとつが身と心にしみる。そして客人一人ひとりへの気配りに感動する。空腹を満たすだけではない、料理を心でいただいているような感覚。ああ、この料理を作る人のお話が聞きたい。この人の人生が聞きたい。直感的に、そう思った。
ーー山崎さんは富山でお生まれになり、富山、東京、そして大阪での修行を経て、30歳の時に独立されたそうですね。今までの人生を振り返って、最初のターニングポイントとなったのはいつでしたか。
まだ小さかった頃、ごはんを作るのも食べるのも好きで、「あんたみたいな子は、料理人になられ(なりなさい)」とよく言われていたんです。これが最初のターニングポイントでしょうか。歯を痛めた妹に、歯磨き粉入りの卵焼きを作ったこともありました(笑)。
ーーご家族に料理人の方はいらっしゃったんですか?
父は会社の経営者ですし、それ以外の親族にも料理人はいないですね。でも中学の時には、30歳で料理人として独立しようと決めていました。
ーー近くにロールモデルがいない中で、それだけ明確に目標を立てることができた理由はなんだったのでしょうか。
母親を楽させたいという気持ちがありましたね。あとは、中学生の時に憧れていた先輩が中学を卒業してすぐに上京し、美容師になったこともきっかけでした。先輩に触発されて、自分も板前としての修行をはじめました。
ーー中学卒業後にすぐ富山のお店に弟子入りされたんですよね。
周りの友達はほとんど高校進学。俺はもう一生、制服を着ることがないんだ、「学校」という場所に行けないんだ、という気持ちは正直ありました。自動車学校に行った時に「久しぶりの学校だ」と感慨深くなったほどで(笑)。
富山駅前にある店で修行していたんですが、自分たちの休憩時間はちょうど高校生が帰ってくるような時間なんですよね。それをみると羨ましくて。3月生まれなので15歳になってすぐに修行に出たわけですから、仕事中に「遊びたいな」と思ったこともありましたし、友達同士で結成したバンドに没頭するような時期もありました。でも心のどこかには、常に「自分の店を持ちたい」という気持ちがあったんです。
ーーいろんな葛藤がありながらの修行だったんですね。
修学旅行客もくるような400人も入る大きな店で、定休日が1年に1回だけの交代制の店でした。定休日が決まっている店に勤める友人が羨ましくてね。
もちろん、店に入った頃は名前も呼んでもらえないし、誰も相手にしてくれなかったけれど、「桂むき」が出来るようになったら一人前だと言われたのを鵜呑みにして、休憩時間も練習に没頭していました。ある日、料理長にちょっとびっくりしたように「お前、上手くなったのお!もう少し上手くなったらお客さんに出してやるわ」と言われて。そう言われたら、自信も湧いてきて、自分が作ったものがお客さんの口に入ると思ったら嬉しくて、家族や友達に報告したのを覚えています。
その店の給料は相場からすれば安かったようなんだけれど、自分は人生で初めて何万円というお金をもらうわけでしょ?安いことにも気づいていなかったし、ほとんど使わなかったから貯金も溜まっていきました。
給料が安いから、従業員の出入りが激しく、自分が4年目になった頃には古株になっていて、その間に料理長は5人も代わっていました。年の暮れの忙しい時期に3人しか板前がいないこともあって、魚を触らざるを得ない状況でしたね。そのときは大変だったけれど、今思えばいい経験でした。
ーーその後、東京の店に移られたんですよね。
知人に紹介されて東京の店に移りました。東京へ行く前に、富山で飲みながら友人に「富山で1番、北陸でナンバーワンになってやるからな」と豪語し、ヒートアップして喧嘩になり警察沙汰になったこともありました。東京で住んだ家のカレンダーには、「3年後、1100日後に俺は富山でナンバーワンになる」と書いて、大きな丸印をつけていた覚えがあります。
ーーそのお店ではどんな修行を?
実は、そこの店の料理が合わなくて1年も経たずに辞めたんです。いわゆる、食べて美味しい料理ではなく彫刻刀で彫ったり、飾ってみたりして「魅せる料理」。すごく悩んで、富山時代の料理長にも電話で相談していました。そんな時、大阪の店に勤めていた富山時代の後輩に「うちの店、すごく勢いのある店ですよ。料理はとても美味しいです」と誘われたんです。それが、「かが万」という店でした。
春に面接しにいくと、おやっさんに「いつから来る?」と一言聞かれました。「5月から行けます」というと、「待っとるからな」とそれだけ。カウンターに案内されて食事をいただきました。それまで自分は、「日本料理は技術的には貴重だけれど、食べて美味しいかと言われると疑問だ。正直、焼肉の方が美味い」と思っていたんです。でも、そこの店の料理を食べた時に、「なんて美味しい料理なんだ」と初めて思ったんです。
ーーそれだけの衝撃を受けた店での修行はいかがでしたか。
東京の店には板前が10人以上いて、さすが東京だと思っていたけれど、かが万には50人もいて、「店長クラス」「中堅クラス」…と分かれていて驚きましたね。かが万ではたくさん学ばせてもらったし、吉兆さんや招福樓さんといった関西の名店にもよく足を運びました。自分が独立して富山で評価される店になるとしたら、ここの店で頑張ることが絶対条件だと感じていました。
ーー大阪時代に学んだことで、印象深いことはありますか。
かが万のおやっさんがカウンターでお客さんと話しているのを隣で聞いていたら、「本当にいい店だと思ったら、何度も通いなさい。1回や2回じゃその店の特徴はわからない」と言っていたんです。それを聞いて、2〜3軒の店に数年間、毎月通ったりしていましたね。当時の自分は料理人としてまだ白紙状態だったから、注目を浴びている店に行って舌で覚えた方がいいということです。例えば、魯山人の湯呑み茶碗で毎日お茶を飲んでいた人がいたとする。すると、手がその触り心地を覚えてますよね。茶碗をこっそりすり替えたとしても、「いつもと違う」とわかるもんです。いいもの、美味しいもの、きれいなものでセンスや舌を磨くことが大切なんです。
また、お店に京都の家元が来られた時には、「定休日を利用して習い事をするのが大事だ」と仰っていたので、定休日に習字を習ったこともありました。
ーーいろんな方からのいろんなアドバイスを、全て実行に移しておられるんですね。
他にも、店に茶花を生けに来られた先生に言われたことも心に残っていますね。先生が生けた花の写真を撮っていたところ、「写真を撮っても意味ないぞ」と言われて。一つひとつの花は、花の形、葉の形、色、寸法どれをとっても違う。どんなふうに生けるかは、一本一本花の特徴とバランスを見ながら決めていくもの。先生がススキと菊を生けているのを見て、俺が花屋でススキと菊を買ってきたとしても同じようにはならないんです。だから茶花の先生は、「写真を撮っても意味がない。本当に美しく花を生けたいのであれば、野山に行って、自然の花がどんなふうに生えているのかを見ること。そして花をみた時にきれいだなと思う心から始めないといけない」と仰っていました。
京都の名店・桜田さんの店主は「まあるいものはまあるく洗え。四角いものは四角く洗え」「立てるものは立てる、立てかけるものは立てかける、寝かせるものは寝かせる。はっきりせい!」ということをよくおっしゃる方でした。僕は空手をやっていたことがあるんだけれど、空手では、正しいお辞儀のときは、腰より頭が低くなると言われます。でも、朝、隣の家のおばちゃんに会った時に「おはようございます」と腰より深くお辞儀するのはおかしいでしょ。隣のおばちゃんへのお辞儀は、真行草で言うところの「草」であるべき。軽いお辞儀でいい。それと盛り付けは一緒。例えば、向付に1品盛って、お皿の真ん中にきちっと高さを入れて「真の盛り付け」としたり、大きな器に2種類盛って「行の盛り付け」にしたり。ちょっと大きいお皿に「吹寄せ盛り」をするのは完璧に「草」だね。盛り付けって、なんとなくしているものだと思うかもしれないけれど、ちゃんと最初から考え抜かれているんですよ。「青いものの上に、色が映えるように紅い紅葉を置いてみようかな」と、いろんなことを考えているわけです。こういった盛り付けのイロハも、大阪時代に学びました。
今ある日本料理の形は、吉兆さんが作ったものです。吉兆さんのご主人が懐石料理の出るお茶会に呼ばれて、その「一期一会」の心に感動したそうです。今日の掛け軸はどうしようか、花入れはどれにしようか、庭に咲いている一番綺麗な椿の花を生けようか、季節感をどう出そうか……そういう心に影響を受けて、それまでの宴会料理に茶事懐石の要素を取り入れたのが吉兆さん。小細工した派手派手しい料理ではなく、一汁三菜、季節のものをうまく調理して、温かいものは温かく、冷たいものは冷たく、タイミングを見てお出しする。料理とは茶の心であると、吉兆さんは謳われたわけです。
ーー「山崎」の料理を食べた方が、そのおもてなしに感動されたというお話をよく伺います。
それが本当だとしたら、それは大阪時代に磨かれたんだと思います。かが万で修行したからこそ、ですね。
一番大事なのは人間だ
ーー27歳のときに、富山に戻られたそうですが、なぜそのタイミングだったのでしょうか。
父が糖尿病の合併症になったことがきっかけで富山に戻りました。帰ってすぐにお店を始めるつもりだったけれど、なかなか話が進まず30歳の時に開店しました。土地はどうしようか、設計士はどうしようかと話が二転三転しました。結局、兄が持っていた土地に店を構えることにしたんです。
ーーお店を持つ前から、「店はこんな設計にしたい」という構想はあったのですか。
設計の知識は全くなかったけれど、関西でいろんな店を訪れていたのでイメージだけはありました。ただ、店というのは、それを見様見真似で真似できるものではないんですよ。先ほどの茶花の話と一緒で、「吉兆さんみたいなお店を作ってください」と言っても無理なんです。
ーーそしてようやく独立されたわけですね。どんな気持ちで、お店を経営されてきましたか。
「富山をよくしよう」の気持ちに尽きますね。口で言うのは簡単だけれど、実行に移すことが大切だと、常々思っていました。
ーー2016年、ミシュランで三ツ星を獲得されましたよね。その時のことを教えていただけますか。もし私が北陸で唯一のミシュランを取得したら、とても誇らしく、ちょっと驕ってしまうような気がするのですが(笑)。
驕りはありませんでしたね。「俺なんかがもらっていいんかな」という感じでした。ちょっと審査が甘かったんじゃないだろうか、とまで思いました。ただ、期待して来られるお客さんが多くなったので、それに応えられるだろうか、という気持ちは強かったです。
ーー料理を作る上で、大切にしていることを教えていただけますか。
「かが万」にいた時に、いろんなお店のご主人に「料理で大切なのはどんなことか」と聞いて回ったことがありました。すると、「掃除が大事だ」「情熱が大事」「お客さんを迎える気持ちだ」と、いろんな答えが返ってきたんです。それをかが万のおやっさんに伝えたところ、「確かにどれも大事だ。でも一番大事なのは人間だ。お前というひとりの人間が一番大事だ」と言われたんです。その時は、わかったようなわからないような気持ちだったけれどね。
ーーいつ頃、その言葉が腑に落ちたんでしょうか。
吉兆の板前が禅宗の寺で修行していると聞いて、禅宗に興味を持ち、富山県高岡市にある臨済宗国泰寺の山田さんというお坊さんに話を聞きに行ったことがあるんです。その方が、とてもいいことを言ってくれました。「寺で修行すれば良いというものではない。お前の修行の場は調理場だ」と。寺で何年も修行したからすごいのではない。そこがわからないと、例え寺に修行に来たとしても変わらんぞ、と。
その方には、他にもいろんなことを教えていただきました。「眉間にシワを寄せて、下俯いて歩くんじゃない。鼻のてっぺんを見るようにして胸を張って笑顔で歩け」と言われたこともありました。「仕事が忙しい時は、精神状態は冷静に、動作だけちょっと早く動かせばいいだろう」と言われた時に「仕事が間に合わなければどうすればいいんですか」と尋ねたら、「間に合わなかったときは間に合わなかったとき。そんなことを考えながら仕事をするもんじゃない。お前は外を歩いている時にカラスが鳴いたら、鳴いたカラスがオスかメスか確認しにいくか?そんな余計なことは気にするな」と。
ーーいろんな方のお話や、経験が山崎さんの料理には反映されているんですね。
でもね、僕は集中すると周りが見えなくなって、カリカリしてしまうので、ずっと冷静でいるなんてなかなかできないんですけれどね。横綱も、強気だけでは横綱になれなかったはず。どんな技を仕掛けられても、冷静でいる心がないと横綱にはなれません。大切なのはわかっているけれど、なかなか難しいね。