宮崎県には、Jリーグ昇格を目指して突き進んでいるサッカーチームがある。「テゲバジャーロ宮崎」だ。「テゲ」は宮崎弁で「めっちゃ」という意味らしい。何だか癖になる名前だ。
このチームを立ち上げたのは柳田和洋さん。宮崎の太陽で真っ黒に焼けた肌と、コテコテの宮崎弁が印象的な彼の周りには、自然と人が集まってくる。
そんな彼が率いる「テゲバ」は県リーグから九州リーグ、そしてJFL(日本フットボールリーグ)への昇格を果たし、今年2月にJリーグ昇格の要件である「Jリーグ百年構想クラブ」にも認定された。
6月15日開催の「をかしなfestival in 青島」でテゲバジャーロ宮崎に協力を依頼したところ快諾してくださった。「新しいもの」を拒まずに受け入れてくださる懐の深さが嬉しい。
柳田さんに初めてお会いしたのは昨年12月。一緒に地鶏をつつき、木挽ブルーを飲み交わしていたら、その人柄に魅せられてしまった。そして、どうしてもこの人の人生について聞きたくなった。
柳田さんにこれまでの歩みと、これからの歩みについて話を伺った。
(一部、宮崎弁を標準語表記にしています。)
サッカーは宮崎の良さを伝えるためのツール
お久しぶりです。
Jリーグ昇格に欠かせない「Jリーグ百年構想クラブ」への認定、本当におめでとうございます!
久しぶり! ありがとうございます。
今日は柳田さんの人生・キャリアについて色々とお話聞かせてください。
キャリアといえば、ちょうどうちの長男坊が大学2年生で進路について考えているところ。サッカーをやるためにスペインのバルセロナに行きたいって言ってるんだけど、その理由を聞くと「サッカー=バルセロナ」だからって答えるんですよ。
サッカーといえばバルセロナが有名だからスペインに行く選択をするのではなくて、もっと見聞を広めてから選択すべきだと思うんだけどなあ・・・。
「チキン南蛮が一番だ」と思っている人が、ラーメン、親子丼、味噌カツ・・・いろんなメニューを食べてみて、それからこれがいいっていうものを決めるべきだと思わん?
息子さんはそれを聞いて何と?
友達の言うことは聞いても親の言うことは聞かんちゃけどね(笑)
東京とか経済圏が「完成している」場所におる人ほど、田舎に眠っている価値あるものに気づけない。完成していると何かを作り出そうとは思わないけれど、田舎には「ゼロからイチ」にできるものが結構あると思うんです。そういうものを探せるかどうかで人生の豊かさが変わるんじゃないかな。
「グローバル」ってよく言うけど、グローバルが果たして良いものなのか、ものの豊かさと心の豊かさどちらが自分にとって大切なのか、見極めるべき。
柳田さんにとって、「都会」はどんな存在なんですか?
たまに都会に行って「いいなあ」って思うことはあります。ルイ・ヴィトンとかシャネルとか買ってる人を見て「すげー」とは思うけど、それは自分のハッピーではないから田舎にいることを悲観することは全くありません。
むしろ、自分の故郷を都会の人にセールスしたい。宮崎のいいものを「サッカークラブチーム」というツールを使ってセールスしているんですよね。
あくまでサッカーは「ツール」なんですね。
はい。「何がやりたいか」と聞かれれば「自分の故郷・宮崎を外にセールスしたい」と答えますね。「テゲバジャーロ宮崎」という名前やエンブレムに、宮崎弁・宮崎名物の地鶏や宮崎牛、太陽など宮崎の良さを詰め込んだのも、そんな想いがあったからです。
柳田さんは高校を卒業して、名古屋商科大学に進学されてますよね。宮崎を出た時から、すでに故郷に対する想いは強かったんですか?
いえ、自分の息子と一緒で、高校生の時は何も知らなかったからそんな感覚はありませんでしたね。
都会に出て、こういう世界があるんだとカルチャーショックを受けました。修学旅行くらいでしか都会に行ったことがなくて。
具体的にどんなところが「ショック」だったのでしょうか?
一番ショックだったのは中日ドラゴンズを街の人がみんな応援していたこと。サッカー部の先輩や街の人が青い帽子を被って、毎日のようにナゴヤドームへ応援にいっているのを目の当たりにしたのが大きかったです。
さらに20歳の時にJリーグが発足して、名古屋グランパスができました。自分にとって一番馴染みのあるサッカーというスポーツが街にある状態をみて、衝撃を受けたのを覚えています。たくさんの人が会場に行く、喜ぶ、飯を食う、ドレスコードのようにユニフォームを着る・・・そういうのがいいなあ、と思って。
街にそういうチームが存在するところを、多感な時にダイレクトに見れたのはよかった。その時は自分がチームを作るとは思っていなかったけどね。
嫌で泣きながら通ったサッカー少年団
そもそもなぜサッカーを始めたんですか?
俺らの小さい頃は、スポーツの選択肢が少なかったから。
母が陸上の国体選手で、俺にも陸上をやらせたかったけどクラブがなかったんです。そこで母の同級生が監督をしていたサッカー少年団に入りました。ちょうどキャプテン翼の始まった頃でしたね。
もともと体を動かすのが好きだったんでしょうか?
全然(笑)
練習には、泣いているところを引きずられてった感じ。
当時はプロサッカー選手という職業がなかったのでマイナー競技を始めた感覚で、サッカー選手になろうとはこれっぽっちも思ってなかったです。
嫌々始めたサッカーを、そのあとはどんな風に続けたんですか?
俺が生まれたのは人口2万人くらいの門川町というところでした。親世代が第二次ベビーブームなので、子供の人数が多くて。
町には小学校が1つしかないから、必然的に同級生の数も多くなりますよね。サッカーやってる子も多く、チームも強くて九州大会に出ていました。
公立の小学校から中学校にいって、高校は進学校・宮崎県立日向高等学校に進みました。東京ヤクルトスワローズの青木宣親選手も出た高校です。一言で言うと「文武両道」の学校ですね。
ではその頃には、夢がプロサッカー選手になっていたんでしょうか。
いや、サッカーを続ける気はありませんでした。でもたまたま、サッカー部の監督に「サッカーを続けなさい。大学はなんとかするから」って言われたんです。
そして東海リーグ1部の大学へ進学することになります。高校の監督には「4年間試合には出られないだろうけど、頑張ってこい」って言われて宮崎を出ました。
やはり、大学サッカーで試合に出るのはかなり難しかったんですか?
それが、大学1年生の最初の公式戦からスタメンで出場したんですよね(笑)
そのまま4年間レギュラーで。
えっ!すごい活躍っぷり!その理由はなんだったのでしょうか?
セルフマネジメントがしっかりできていたんだと思う。
もちろん全国大会経験者がたくさん集まっていたけど、その中で「絶対ナメられない。自己アピールしてやる」って思っていて。最初の練習で先輩をなぎ倒すようにやっていたら「荒くれ者」だと印象づいたんだと思います。
そしたら戦える選手だと認識してもらえて、さらにちょうどポジションが空いていたのもあって、1年生でただ1人スタメンになりました。
そのセルフマネジメント力の高さはどこで培われたものだったんでしょう?
高校で主将を務めたのが大きかったと思う。
サッカーを始めた時から高校までは、決して主力選手ではありませんでした。
しかもサッカーの指導者として有名な監督が、俺らが高校に入学すると同時に異動になって、新しい監督はサッカー指導未経験者だったんです。
同級生のうち5人は中学校で主将をしていました。でもみんなキャプテンになりたがらなくて、監督に「みんなに好かれとるから、柳田が主将になれよ」って言われてなったんですよね。
自分で考えて、自分で下を動かして、全体責任はキャプテンである自分が背負っていました。「ボトムアップ理論」とも言うのですが、自主性を持って何をすべきかを考えることができていたんだと思います。
監督が選手に伝えるのではなくて、監督の意図を汲み取ってそれをキャプテンが下に伝えていく、人を動かす、自分でも考える、ということを高校で学びました。
なるほど。高校では「名監督」が指揮して強くなるチームは注目を浴びていますが、「名キャプテン」はそれほどフォーカスされませんよね・・・。
それだけ、名キャプテンは少ないのかもしれません。
企業が新入社員を育成する過程でもっとも成長するのは、新入社員を指導する社員だと聞いたことがあります。
監督の言ったことを自分でスポイルして、腹落ちして理解してから下級生に伝えていた時に、俺はリーダーシップを身につけ、自分で考えて行動することができるようになりました。
各中学校からキャプテンが集まったチームをまとめるのは大変ではなかったですか?
いや、みんな頭がいいからさ(笑)
でも結果は残せなくて、県ベスト8までしか行けなかった。同じ学年の野球部は甲子園にいったけどね。元巨人のプロ野球選手・織田淳哉は同級生なんですよ。
やめずに続けてきたことに意義がある
大学卒業後はどんな風にサッカーに関わっておられたんですか?
大学を卒業して、Jリーグに入ろうとプロテスト受けたんですがどこも合格しなくて。当時はJ2やJ3がなかったので、門戸も狭かったんです。
宮崎県に帰り、建設業にUターン就職。建築の勉強のために1年間設計事務所に勤めていた間、サッカーからは離れていました。でも、それほどサッカーに未練は感じていなかったんですよね。
そんな生活が1年過ぎた頃に、「人足らんから来てくれ」って宮崎県サッカーリーグに誘われて参加するようになりました。でも大学で真剣にサッカーやってた身からすると県リーグでは物足りなくて。得点王とアシスト王を同時に取るくらいには無双してましたね。
すごすぎる!まさに無双ですね・・・。
でも自分にとっては「得点王とアシスト王くらい当たり前やろ」という感覚。そこで火がつきました。
ちょうどそのタイミングで「宮崎にJリーグを目指すチーム作るからこんか?」って言われたので28歳の時に県リーグをやめて参加しました。プロフェソール宮崎というチームで、かなり強い選手を集めたので盛り上がりましたね。
その時はプレイヤーとして参加されていたんですか?
はい。フロント(オーナー・広報・営業など)は別にいました。注目されて、そこに「気持ちよさ」を感じる選手もいたと思います。でも自分はそこに疑問を感じて。
その時に初めて、マネジメントがしっかりしないとチームはうまくいかないことを知ったんです。そのチームは結局潰れてしまいましたが、それを見れたのも今となってはよかったです。
それで自分自身がクラブをマネジメントすることにしました。
それが「門川クラブ」(テゲバジャーロ宮崎の前身)ですね。チームはどんな風に始まったんですか?
言ってしまえば「草サッカーチーム」だった門川クラブを恩師から受け継ぎました。元からチームにいた数名の選手と、「やなさんについていく」と言ってくれた前のチームメイトの7~8人が最初のメンバーです。
個々は強いのでチームとしては成り立っていたんですけど、クラブとして運営していくのが一番の目的だったので、今思えば当時のチームはまだまだ力不足でした。
選手たちが柳田さんのもとに集ったんですね。本当に人たらしだなあ。
どんなやっちゃろうねぇ。
決して指導は優しくないんだけどね(笑)
サッカー少年団に泣きながら行っていたはずの柳田少年、いつの間にかサッカー中心の生活ですね。
間違いなく、小学校の時はサッカーが嫌でしたね。めちゃくちゃ怒鳴られるし。
でもここまで続けているってことは、結局サッカーが好きなんだと思います。
選手から監督へ立場が変わったわけですが、最初はどんな状況でしたか?
とにかくお金がなかった。だから人をお金で呼ぶこともできなかったし、随分手弁当でやりました。
つい5年前は火曜日はナイターで夜9時まで練習して、次の日朝6時から朝練やって、次の日またナイター練習、金曜日はまた朝練・・・っていうのをやっていたことに、こないだFacebookを見ていて気づきました。今一緒にやっているスタッフも「やなさん、5年前にこんな生活してたんですか!」って驚いてましたね。
その時俺は41歳。それでもこんな生活ができていたと思うと、人生は年齢じゃないんだなあと思います。
それでも続けてこられた、その原動力が知りたいです。
振り返ると「人から頼まれたことは断らない」「興味あることに手を突っ込む」ということを続けていたら、クラブが潰れそうになったときに周りが手を差し伸べてくれたんです。苦しい時には周りが自分を担いで連れて行ってくれた感じですね。
これは見返りを期待した計算じゃなくて、義理・恩・感謝みたいなものかな。田舎のいいところは「人との繋がり」だと思っていて、醤油や砂糖がなくなったら、隣の家に借りにいくような古き良き精神は大切にしたいんです。
逆に、マネジメントやマーケティング・営業はその両極にあるものだと思っています。今、テゲバジャーロ宮崎のフロントには、得意分野を持った人たちが集まってくれています。俺が口説いて連れてきたメンバーがほとんどです。
組織が大きくなるにつれて、マネジメントやマーケティングは得意な人に任せて、自分自身はやってきたことを人に伝えていく役割を担うようにしてきました。
どんな風に伝えておられるんですか?
もちろん、テゲバジャーロの選手やスタッフとよく語り合うんですが、宮崎の小中学校の講演を頼まれることも多いんですよね。
その時に必ず伝えているのは「続けることの大切さ」。
クラブスポンサーを集めるためにいろんな企業を回っているけれど、経営者の方々に評価してもらえる点は「長く続けていること」なんです。それは、経営者は会社を長く続けることの難しさを知っているから。好きでも続けることができない状況はたくさんありますからね。
「門川クラブ」を任されてから今年で20年目なんですけど、やめずに続けてきたことは評価されていると思います。やめるのは簡単じゃないですか。ラインでも、メールでも、電話でも「サッカーやめます」って言えばそれでやめられる。
20年・・・なかなか想像がつきません。
20年前は練習する場所がなかったので、2時間くらいかけて地元の公園まで行って、働いていた建築現場の投光器で照らしながら練習してたんですよ。しかもたったの3〜4人くらいしか練習参加できなくて。でも、それを続けていたら、今は目の前に「プロ」というJリーグの世界があるのっておもしろいでしょ?
現監督の倉石圭二も、同じ町出身で高校の時に自分の講演を聞いていたんです。公園で練習していたことも知っているから、「やなさんはすげーや。俺もやろうかな」と学校の先生を辞めて一緒にやってくれてる。
エースの水永翔馬も、V・ファーレン長崎をJリーグに昇格させて、ツエーゲン金沢をJ2にあげたツワモノなんですが、小さい時から俺のことを知っているから、それを評価してテゲバで一緒にやってくれているんだと思う。
そう思うと、良い時も悪い時も続けることが大事なことなんでしょうね。
そうやって地道に伝え続けていたことが10年以上経って実を結ぶんですね。
先ほど「サッカーやめます」と言えば簡単にやめられるとおっしゃっていましたが、これまでそんな苦しい瞬間が何度もあったんでしょうか?
いや、それがあんまりないんだよね。みんなそう言うんですけど、天然すぎて気づいていないのかもしれない(笑)
一番お金がなかった時に、頻繁に研修で東京に行っていたんですよ。一緒にやっている秋本範子(テゲバジャーロ宮崎・取締役)も、まだバイトでやってもらっていた頃です。「やなさんが東京行ったっちゃけど、苦しくて死んどんじゃないやろうか」って思ったと今になって振り返ってますよ。
本当に、辛いと思ったことはなかったんですか?
まったく(笑)
生きてるだけで丸儲けだと思っているんですよ。若い時に亡くなった知り合いがいたので、より一層それを感じているんだと思います。生きてさえいれば、心の持ちようで苦しさをチャンスにすることができる。
育成チームの子供達には「チャレンジしろ」ってよく言います。「チャンスがあればやれ、自分の苦手なことも一回やってみろ。苦手なものも一回食べてみろ。一歩踏み出すようにしろ」って。
一度、NHKのサッカー生中継の解説を依頼されたことがありました。あがり症だし、話すのは苦手だから断ったんですよ。でも小中学生のサッカー指導中に「なんでお前チャレンジしないの」って言葉を発した時に、「あなたもしてないでしょ」って自分の中で声が落ちてきたんです。そこでちょっとチャレンジして解説をしてみることにしました。
いつもの指導が、ご自分に返ってきたんですね。
生中継で解説をやって、案の定訛りました(笑)
そしたら「訛りのある解説に愛着が湧いた」っていう反響があったんですよね。やってみないと、そんなことわからないじゃないですか。それからは極力断らないようにしてます。
そんなこともあって、何でもかんでもやりたがり、引き受け、やってみようということを子供達にも伝えています。「足が遅いから、背が小さいからできない」じゃなくて「足が遅いから、背が小さいからこそできること」を考える。
ほら、俺も訛ってて恥ずかしいなじゃなくて、顔だけ見たらめちゃくちゃ怖いけど、口を開くと宮崎弁で親近感がある、とかね(笑)
そう考えていけば、物事もいい方向に向いていくんだろうなって。むしろ、常に逆境に立っていたいなと思います。今から「Jリーグにいく」っていう大きなハードルがあるし、限界を超えたらまた次の限界が出てくると思うし。
”逆境に立っていたい”だなんて・・・(笑)
自分は生きているし、クラブ立ち上げの頃に公園でサッカーやっていたのと比べると、今の悩みは大したことない。どう考えても右肩上がり。最初と比べたら、今の状況は「成功」の部類に入っています。
逆境を楽しめるようになりましたね。こう人にアドバイスしても、あんまり参考にならないって言われるんですけど(笑)
クラブが大きくなってきたからこそ、望まれて解説に呼ばれたんですよ。自分という需要があって呼ばれたわけだから、求められることに価値がある。練習試合もそう。依頼が来るということは、望まれる価値があるということ。その価値を自分から拒否していくべきではないし、もっと上がっていくためには人前に立つことも大事だと腹落ちしました。
サッカーに偶然出会い、続けてきた結果、「Jリーグ」という大きな舞台までもう少しというところまできた柳田さん。
後編では「テゲバジャーロ宮崎」をどんなクラブにしていくのか、構想を教えてもらった。