富山県出身で、俳優として活動している古村勇人(ふるむらはやと)さんに会いに行くことにした。
なんとあの国民的時代劇『水戸黄門』やヒット映画『のぼうの城』にも出演され、毎年ふるさとで大規模なディナーショーを開催しているという古村さん。
そもそも、「俳優」ってどうやったらなれるんだろう。
「俳優」になろうと思ったきっかけはなんだったんだろう。
「俳優」って食べていけるの・・・?
そんな素朴な疑問を胸に待ち合わせの恵比寿ガーデンプレイスへ向かうと、古村さんが素敵なジャケットに身を包み、颯爽と現れた。
「時代劇」に出会った日のこと
本日はよろしくお願いします。
古村さんの人生におけるターニングポイントを中心に、いろいろとお話聞かせてください。
もちろんです!こちらこそ、よろしくお願いします。
「俳優」という職業があまりにも遠い存在なので、そこに至るまでの経緯が気になります。
そもそも、「俳優」を志したきっかけはなんだったのでしょうか?
一番最初に「俳優」という言葉を意識したのは小学2年生の夏休みでした。毎日のようにテレビで時代劇の再放送をやっていたんです。
里見浩太朗さん主演の時代劇を祖母と一緒に見ていたら完全にハマってしまって、それが全ての始まり。
今では信じられないかもしれないけれど、当時は時代劇を各局1本ずつ作るくらいの流行りようでした。
里見先生が『長七郎江戸日記』などの人気シリーズのほか、「日本テレビ年末時代劇スペシャル」で8年連続で主演を務められていて。家族は1階で紅白、僕は2階で時代劇を観ていました。ずいぶん渋い小学生でしょ(笑)
そして高校1年生で初めて東京に出た時に新橋演舞場で里見先生の座長公演を観たんです。新撰組局長・近藤勇を描いた『新撰組余聞 花かんざし』というお芝居でした。本当に感激したのを覚えています。
小学生の時から夢は「俳優」だったんですか?
単純な「憧れ」が「夢」になって、「夢」が「目標」に変わった感じかな。
小学校の卒業文集にはすでに「時代劇スターになりたい」って書いてるんです。文集に「野球選手」とか「サッカー選手」とかって書いても、大人になるにつれて変わってしまう。
僕はその小学生の時の夢がずっと変わらなかったんです。
観る側から、自分で演じるようになったのはいつだったんでしょうか?
うーん、幼稚園の時からかなあ(笑)
年長の時にお遊戯会で「キリスト生誕劇」のヨゼフ(キリストの父)役、つまり主役をやりました。その後小学校に上がってもずーっと主役。
6年生の時もみんなからの投票で主役に決まったんだけど、いつも主役なので担任に役を降ろされるくらいにやっていましたね(笑)
「主役は古村くんだよね」って自然と選ばれるやつですね!
中学生以降はどうでしたか?
中学校に入った時に、母親がオーディションに申し込んだのがきっかけで高岡野外音楽劇『越中万葉夢幻譚』に参加しました。
これは僕のふるさとである富山県高岡市の古城公園を舞台に、製作陣はプロ、出演者とスタッフは一般市民で作る2日間の野外音楽劇。これも大きな出会いでしたね。
毎年、夏の終わりに、古城公園の本丸広場にプレハブの観客席が建てられ、2日間で約7,000人の観客が全国からやってきて。出演者が1,200人とボランティアスタッフ300人の大規模なイベントだったんですよ。
すごい規模!出演者の数がズバ抜けて多いですね。
しかも合戦のシーンでは本物の馬を使ったり、バレエやお能、民謡やダンスが盛り込まれ、花火やレーザー光線があったりと、それはもうまさに総合芸術。ナレーションは江守徹さんと平幹二朗さんだったんですよ。作・総監督は野外音楽劇の世界第一人者である藤本壽一さんでした。
僕は中学1〜3年生までは「出演者」でしたが、藤本監督にはすごく可愛がっていただいて、高校生になってからは「監督助手」になりました。たくさんの市民が関わっているのにスタッフルームに入れたのは僕だけ。
プロの世界を初めて目の当たりにして、生の舞台を作るってことに魅せられました。
当時のプログラムには英語でストーリーが書かれていたことからも、海外からの観光客がいかに多かったかがわかるでしょう?今振り返っても、画期的で素晴らしい作品だったと思います。
大好きな時代劇の体験を壮大なスケールで、しかも自分の地元でできることに夢中になった学生時代でした。
一枚の年賀状が紡いだ縁
『越中万葉夢幻譚』のメンバーとは今でもお付き合いがあるんですか?
夢幻譚でお世話になった方々とは上京後も年賀状のやり取りが続いていて、俳優デビューした頃にまた再会することになりました。そして僕が出演した映画の宣伝に協力してくれたり、「古村勇人富山後援会」の立ち上げに繋がっていったのです。
当時はその後の財産になるとは全く思ってなかったんだけど、出会っただけでなく、その縁を途切れさせなかった結果、かけがえのないものになりました。
たった一枚の年賀状がきっかけで、しかも再会するまで7〜8年会っていなかったことを思うとすごいですよね。
中学生の自分を知ってる人と仕事をするってどんな感覚ですか?
向こうも面白がってるんじゃないかな。
若い人でも僕より10歳以上年上の人たちが多いんですが、夢幻譚では僕の方が先輩だったから今でも甘えられる関係なんです(笑)
時を経て関係が形を変え、実を結んでいくんですね。
原点は「里見浩太朗」さん
大学進学で上京されたんですよね。そのころはどんな生活をされていたんですか?
母子家庭で裕福な家庭ではなかったので、授業料が安いという決め手で東京都立大学(現・首都大学東京)に進学することにしました。なんと、当時の寮は家賃が月3,300円。1日100円ですよ、信じられないでしょ?
小学生の時に祖父が経営していた会社が倒産して、両親も離婚しちゃって。それからはいろいろと苦労したんですよ。
大学1年生の時からオーディションを受けまくって、合格したのが女優・葉月里緒奈さんの当時の所属事務所。デビューに向けてレッスンにも通ったのですが、なかなかうまくいかなくて。
「自分の原点は里見浩太朗さんだ」という思いがあったので、大学2年生の時に里見先生の門を叩きました。でも返ってきたのは「大学に通うために東京に出てきたんなら、大学を卒業するのが筋道だろ」という言葉でした。
それで、4年間の卒業単位を3年間で取りきりました。これ、本当の話なんですが、最後の1年間は卒業式も含めて大学に行かなかったんですよ。
大学4年生になった時に「卒業単位を取りきったので1年間空きました。お側で勉強させてもらえませんか」って通ってお願いをして。
里見先生が大河ドラマ『利家とまつ』に出演されていたタイミングだったのでNHKに通ったんですが、そしたら急に里見先生が『水戸黄門』の5代目・水戸光圀役に決まったんです。その時に「古村くん、京都に一緒に行くか?」って言われて、「行きます!」と即答しました。
長年にわたり、時代劇のトップスターとして活躍する里見先生が初めて水戸黄門を演じたシリーズを付き人としてお側で勉強させていただきました。
すごいタイミングですね。古村さんの熱意を感じるエピソードです。
それからずっと、今もお世話になっておりますが、里見先生との出会いが僕の人生を大きく変えましたね。本当に感謝しています。
そのあと東京に戻ってきてから動き出し、2006年『新・細うで繁盛記』にてデビューを果たしました。沢口靖子さん主演のスペシャルドラマでしたね。
そして、里見先生の付き人として京都に行ってから8年後、『水戸黄門』のゲストとして呼んでいただいた時はめちゃくちゃ嬉しかったのを覚えています。「この紋所が目に入らぬか!」「ははー」となるあの場面で、ご老公の命を狙う旗本の悪い若侍役でした。
芸能界に身を置いているというのはどんな感覚なんでしょうか?
芸能界の仕事は大変!役をひとつもらうのも、本当に大変なことなんですよ。
だって俳優になりたいと思って全国から出てきている人間が山のようにいて、その全員が必死になってひとつの役を求めて動いているわけですから。
それなのに、ひとつの仕事はあっという間に終わってしまう。するとこれまたその繰り返し。デビューしたあとも、毎日ずーっと「もがいている」感覚です。
彼は夢を叶えた人だと思っていたが、まだまだ夢の途中にいる人なのだと気づかされた。
その夢にどう向き合ってきたか、後編で詳しく聞いた。