政治に関わる仕事をしている友人はほとんどおらず、馴染みのない「政治家」という職業。馴染みがないからこそ、志す理由が知りたくなった。
国を変えたいから?成績がよかったから?親が政治家だったから?
31歳で政治の道へ一歩踏み出した、木村あきひろさんに話を聞きました。
◎卒業アルバムには「パイロットになりたい」と書いた
ーー木村さんは2023年4月の目黒区議会選挙に出馬されるそうですね。政治家は代々政治家になることも多いと思うのですが、木村さんのご家族には政治家の方がいらっしゃったのでしょうか。
いいえ、政治家はいませんし、大学入学の頃まで僕の夢はパイロットになることでした。母は建築士で、数日帰ってこないことも多々ありましたね。小学生の頃は、深夜まで母の飲み会に付き合わされていて、居酒屋で眠っていました。あの頃は嫌だったけれど、今思えばいろんな人の話を横で聞ける貴重な経験でした。
ーーパワフルなお母様でいらっしゃるんですね。幼少期からのお話をお聞かせいただけますか。
目黒に生まれ、目黒の公立の小中を卒業しました。やりたいことを全部やっていた幼少期でしたね。柔道、剣道、水泳、サッカーに野球、公文……。母は必ず「なぜやりたいのか」を聞き、ちゃんと答えることができれば、ほとんどやらせてくれました。母からは「私は忙しいから、どうやってやれるか自分で調べてみて」と言われたのを覚えています。幼少期を一言で表せば「放任主義」でしたね。お使いを頼まれることも多く、「道や買い方がわからなかったら聞け。口はそのためにある」というのが母の口癖で。我が家の放任主義は、親が「NO」と言わなかったこと、母が頑張って築いた経済力、そして子どもへの信頼があったから成り立っていたのだと思います。
ーー私も子育て中なので、「NO」と言わないということがどれほど難しいか痛感しています。お母様の強さを見習いたいです…。高校生の頃についても教えてください。
5歳上の姉がアメリカの大学に進学したことがきっかけで、アメリカ・シアトルにある高校に進学しました。姉が海外進学した理由は正確には聞けていないんですが。
姉の入学式に出るために家族みんなでアメリカに行き、初めてアメリカの学校というものを目の当たりにしました。毎日パーティーして楽しんでいるのかと思いきや、平日の寮はシーンとしていて、パーティーは週末だけでオンオフがしっかりしていたんですよ。こんなところで学びたい、違う言語を話せるようになりたいと思いアメリカの高校へ。シアトルのNorthwest Schoolを選んだのは日本から近い西海岸の中で、日本人が少なく、寮があったからです。
ーーアメリカの高校へ進学する際にハードルはありましたか。
アメリカの学校って、入りやすく卒業しにくいとよく言われるじゃないですか。まさにその通りでした。僕の成績は決して良い方ではなく、中学の英語の成績は5段階中2だったんですが、学校外の課外活動や柔道初段をもっていることを伝えたら一発で合格が決まりました。
ーーアメリカの高校での生活はいかがでしたか?
英語は話せなかったなんですが、友達はできましたね。でも私立高校で小規模の学校だったので、映画で見るような「ザ・アメリカ」な学校にいきたい気持ちや、部活等のスポーツレベルの低さから、いろんな人種も集まる大きい公立高校へ転校することにしたんです。
ーーえ!?せっかく入った学校をやめて?
はい。でも、アメリカの公立高校は、ビザの関係で基本的に留学生として1年間しか在籍できないことがわかったんです。そこで、シアトルのすぐ北、カナダの公立高校に転校することにしました。
とりあえずカナダの友達のところに行って、アポなしで高校を回って怒られて(笑)。でも、ビクトリア(ブリティッシュコロンビア州の州都)に行った際に、途中でメールを送った教育委員会の人が付き添ってくれて、ビクトリアの学校に決まりました。その方の奥さんが偶然日本人だったこともあり、親身になってくれたようです。「日本人は大抵エージェントを使うのに、あなたはどうやって来たの?」って言われましたね。転校の手続きも全部その人がやってくれました。
ーーちなみにご家族はなんと?
公立になって学費も安くなるし、いいんじゃない?って(笑)。でも、手続きはそっちでやりなさい、と言われました。
ーー英語の成績が2だった木村少年が、一人でアメリカからカナダへの転校を決めたわけですね。語学がネックになることはありませんでしたか。
正直、あの時どれくらい英語が話せたか、なぜ転校までできたのかよく覚えていないんですよね。自分でもよくやれたな、と思います。
◎2回の不合格と、話せるのに成績は悪い中国語
ーー新しい高校はいかがでしたか?
転校先のEsquimalt High Schoolはスポーツが盛んで、ちょうどレスリング部が新設されたばかりでした。柔道をやっていたこともありレスリングに転向したところ、新設校にもかかわらず州で優勝しちゃって。個人でもレスリングの特待生に選ばれたので、そのままカナダの大学に進学することもできたんですが、日本に帰国することにしました。
ーーなぜ日本に?
うちは祖母、母、姉と僕の4人家族なんです。姉と僕がアメリカに進学したら寂しくなるし、学費面も負担が大きいので、高校から渡米することを認めてもらう代わりに大学は日本にすることを約束していました。
ーー志望校はどのように決めたのですか。
小さい頃からパイロットになる夢を持っていたため、防衛大学校を受験することにしました。小学校から高校まで一貫して、卒業論文には「パイロットになる」と書いていたんです。英語を話せるようになりたかった理由の一つもそこにあります。
ーーおお!夢に向かって真っ直ぐに進まれたんですね。
でも見事に落ちました。
ーーおお!(笑)
受かるつもりでいたので、合格発表時には大学の帰国子女入試はほぼ終わっていて、一般受験しか残っていなくて…。それから2ヶ月一般受験の勉強をして、自分の強みである英語と小論文で受験できて、一つのことに縛られず幅広く学べる教養学部か総合政策学部を志望しました。最終的に、埼玉大学、慶應義義塾大学、青山学院大学から合格をもらいました。
防衛大学校には受験できる年齢に制限があるんですが、当時はあと1回受験できる年齢だったので、仮面浪人するために一番学費の安い国立の埼玉大学に進学することにしました。
ーーそして2回目の受験は…?
落ちました(笑)。そこでパイロットの道はキッパリと諦めて、大学在学中に中国に留学することにしたんです。ちょうど2012年に尖閣諸島問題抗議デモ等が勃発していた頃で、テレビでは中国でのデモが毎日のように放送されていました。自分が知っている中国人とメディアの中の中国人の乖離が大きかったので、何が起きているのかを自分の目で確かめに行こうと思ったんです。
政治の中心である北京の中国人民大学に留学しました。留学当初は中国語で「トイレどこですか」も聞けなかったし、1から10まで数も数えられませんでした。英語がわからずにアメリカに行った頃と同じ状態でしたね。
ーー中国語が全くわからない状態での中国生活はいかがでしたか。
友達をたくさん作って、飲みに行きまくりました。仲良くなった頃に、尖閣諸島のデモの件を聞いてみると、「あれはバイトが大半だよ」と教えてくれました。もちろん強い反日感情を持った人も中にはいるけれど、あれだけの人数が一気にデモすることは難しいです。バイト代やお弁当が支給されたようで、遠方からもからもたくさんの人がデモに参加していたようです。反日を叫べば、政府の支持率は上がっていたので…。
大学の友人だけでなく、企業の人とも仲良くなって飲みに行くと、経済面から中国と日本の関係をみることができるようになりました。どれだけ政治的な思惑が交錯しても、経済的な繋がりが切れることはないとは思うけれど、何かあった時には互いに失うものは大きいと感じました。
ーー具体的にはどんな生活を送っておられたんですか。
午前中は他の国々からの留学生と中国語の授業、午後は中国人と一緒に英語で法学や経済学など様々な授業を受けました。中国語の授業は語学レベルに応じて上中下にクラス分けされるんです。日本語と中国語には漢字という共通点があるにもかかわらず、僕は下のクラスで、周りは西洋人ばっかり。先生にも「なんで私の話す中国語はわかるのに、テストの点数はこんなに悪いんだ」って呆れられていましたね。まあ、勉強以上に中国人と一緒に飲みに行っていたので会話はできるけれど、テストは全くできないんですよ。でも、そこで自分の強みに気づけたというか…勉強はできないけれど、人付き合いのうまさとか、コミュニケーション能力の高さは実感しました。
ーーアメリカやカナダの時といい、中国の時といい、語学の習得が早くて友達もすぐにできておられますよね。
アメリカやカナダ、中国でできた友達とは今でも頻繁に連絡をとりますね。人との出会いでここまできた感じがします。いろんな人が助けてくれて今の自分がいるので、能力はあまりないけれど、人徳が唯一の能力かなと思っています。
◎無駄な責任感と教育への疑問
ーー大学生といえば就職活動も視野に入ってくる時期かと思うのですが、パイロットを諦めた木村さんは何を目指しておられたのですか。
大学2年生の頃から自分は何をしたいのかを考え、「教育」に関わりたいと思うようになりました。人が好きで、人間が生きる社会の根幹を担うのは教育だと思ったんです。経済なども当然重要だけれど、それは頭のいい人が仕組みづくりをすればいい、と思っていて。
子どもがいろんなことに興味を持つためのきっかけや場を提供するのが大人の役割だと思うんです。子どもたちの「これって何だろう」っていう気持ちに全力で応えていくことが大切だと思っています。子どもの「あれ何?」「これ何?」を尊重して、子どもが好奇心を広げていけるような環境を作っていきたい。
例えば、目の前にある牛肉や豚肉が、元は生きている牛や豚で、それを育てる人がいて、流通させる人がいることを知る機会を設けることや、家で飼っている犬や猫とはどう違うんだろう、と考えさせる時間を作ること…。考えるきっかけをつくることが大人の役割であり、子どもが自ら学習しようとすることが重要ではないかと。
「いい学歴を手に入れることが一番」だとする方が親も国も楽かもしれません。東大に合格させるための画一的な教育を一気にやる方が、効率的なのかもしれません。今の日本はそれに近い教育をやっています。諸外国と比較すると一定水準以上の識字率等の高さは純粋にすごいと思います。しかし、「頭がいいね」と言われる子は成績の「点数」がいいだけ。そこに至る過程は評価されません。例えば日本って、右からくる一定の波に対応する技術を確立して、職人技にすることには長けているんです。でも、違う方向から波が来ると一気に弱くなる。今を生きる僕たちや、次の世代はそんな状態で生き残っていけるのだろうか?と、とても不安なんです。
ーーそれだけ今の日本を憂いておられたら、海外に逃げる選択もありますよね…?特に、木村さんなら海外生活に困ることはなさそうですし。
日本に見切りをつけて、海外に行く人は増えてますよね。でも、日本を変えたいじゃないですか。
自分には無駄な責任感があって「俺がやらないと誰がやるの?」って思ってるんです。お前じゃなくてもいいよって言われるかもしれないけど、「もうやるって決めたから」って頑固な自分がいて。そして「教育」という答えのない問いに答えるような人生の方が、飽き性な自分に合っていると思ったんです。
最近ようやく、政治家が教育に言及するようになりましたが、昔は票や金にならない教育は後回しにされがちでした。本当に子どもの将来を考えた教育を行っている行政は少ないです。僕が政治家を志した頃、子どもの教育を面前に掲げていた国会議員は数えるくらいしかいませんでした。
ーーでも木村さん、プロフィールを拝見すると大学卒業後に政治家にはならずに民間企業で働いておられますよね。
小さい頃にテレビを見ていて、サラリーマンの経験がない政治家って一般的な感覚がないのかな、と批判的な目で見ていた記憶があって。自分がもし政治家になるようなことがあればサラリーマンの経験を経てから政治に携わろうとぼんやり思っていました。
ーーなるほど、それで民間企業へ就職されたのですね。どのような就職活動を行っておられましたか。
留学中に就活の時期は終わっていたので、バイリンガルのための就活フェア「ボストンキャリアフォーラム」に中国から参加しました。ここでもやらかして、渋滞にハマって3時間も遅刻したんですが…(笑)。なんとか複数社から内定をもらってAIG損保という保険会社に就職しました。
ーー教育に興味を持っておられたにもかかわらず、なぜ保険会社を選ばれたのですか。
教育をやりたいなら金融業界に行かずに学校の先生や文科省勤務、ベネッセのような教育関連企業に行けばいいと周りからは言われました。でも、最初から教育業界に身を置いて自分の考えが凝り固まってしまうのが嫌だったんです。何かに真剣に取り組んで力をつければ、違う業界でも生かせると思っていましたし、金融業界の面接でも「いずれは教育をやりたい」と伝えていました。
ーー複数の選択肢の中からAIGを選んだ決め手は?
「人」ですね。一緒に働きたい、この人のためなら働けると思えるかどうかで決めました。内定をもらってから、僕の無茶ぶりに全部全力で応えてくれたんです。
ーー無茶ぶりをされたんですか?(笑)
今日会社行ってもいいですか、とか、役員に会いたいとか、社員と話をしたいとか。そしたらすぐにその場を設けてくださったんですよ。その時に話した役員とは、今でも食事に行く仲です。
ーー節々で「人」との出会いが木村さんの人生を支えているのですね。入社後はどんなお仕事を?
僕はどんな業界に勤めても、まずは営業の経験を積みたいと思っていました。でも当時、AIGがリーマンショックの影響を受けていて、営業採用だったのにIT戦略企画に配属されたんです。それが嫌で1年経たずに転職活動を始めました。
友人の紹介でアメリカのIT企業から内定をもらった翌日に、AIGの採用面接で話した役員から急に電話がかかってきたんです。「ランチ食べに行こう、寿司食べよう」って。
ーーすごいタイミングですね。
いつもなら半月以上先じゃないと予定が押さえられない忙しい人だったので、何かやらかしたのかと思いました(笑)。
ランチに行ってみると、「俺の部署にこい」って言われたんです。誰でも知っているような大企業の保険等を扱う部署でした。経験を積まないと行くことができない部署だったのでとても驚きましたね。外資系らしく「この寿司を食べるまでに決めてくれたら、うちの部署でとるよ」と言われたので、可能な限りゆっくり食べて時間を稼ぎ、その部署に行くことを決めました。
ーーその部署ではどんなお仕事を経験されたのでしょうか。
ブローカー営業と呼ばれる営業を経験しました。一般的に損害保険は代理店を通して営業することが多いんですが、保険会社から独立しているブローカーと呼ばれる方々が顧客から委託を受けて保険会社との媒介を行うことがあります。特殊な保険を扱っていたので、保険を1から勉強しました。部署の上司からは常に「3歩先を考えて行動しろ」とよく言われていて、相手が何を求めているかを考えるようになりました。AIGは、戻れるのであればもう一度戻りたいくらい大好きな会社です。
ーーそんな大好きな会社を3年半で辞め、転職された理由は?
政治の世界に入る前に、一度違うフィールドを経験したいな、と思ったんです。経験を生かせて、給料も今より高い会社を探していると、PwCあらた有限責任監査法人から声がかかりました。日本にブローカー案件がよく入ってきた時期だったようで、監査法人に保険ブローカー営業経験者がおらず、経験者採用をしたというわけです。
監査法人といえば会計士ですよね。これまでの人生で関わることがなかった、三大国家試験と呼ばれる公認会計士試験に合格した人たちと一緒に働ける良い機会だと思って入社を決めました。実は、PwCを受けている時はPwCコンサルティングだと思って受けていたんです。でも、内定書が届いて見てみると、「PwCあらた監査法人」と書いてあって。後輩に「監査法人とコンサルティングってどう違うの?」って電話したら、「よくそれで受かりましたね。全然違いますよ」って笑われました。
ーー毎度事件はありますが、今回は内定が出てよかったです(笑)。
AIGは素敵な会社で今でも働きたいと思ってはいるけれど、あの時転職して全く違う業界のことを知ることができてよかったな、と思います。
PwCでも人に恵まれ、面接の当日に内定を決めてくれたスピード感も自分に合っていました。PwCでは日系損害保険会社の監査ヘルプと外資系生命保険会社プロジェクトマネージャーとして常駐で働きました。チームにも恵まれて、今でも飲みに行く仲です。どの環境でも人に恵まれていますね。