懐かしい人からの連絡は嬉しいもの。
大学時代、サッカーを通じて知り合った木下詩織さん(旧姓:田原)から連絡がきたのは今年2月のことだった。
大学は違ったけれど、面倒見の良さと人懐っこさを兼ね備えた詩織さんにとてもお世話になった。しかし突然の連絡に喜んだのは束の間、こんな報告だった。
「私いま、白血病で治療してるのね。数年前、火事で父さんが亡くなったことも含め、もはや人生が数奇すぎて何かに残しといた方が良いかなとか思って(笑)
史菜が頭に浮かんだ。」
そんな大変なときに、私のことを思い出してくれて心の底から嬉しかった。先輩に恩返しできるなら、できる限りのことをしたい。
残念ながら感染症リスクがあるため直接会って話すことができず、オンラインでインタビューを重ねて、この記事が完成した。
「急性リンパ性白血病・Tリンパ芽球性白血病です」
詩織さん、お久しぶりです。今日は少し体調が良いということですが…。
今、粘膜がやられていて口の中が痛すぎるのよ。でも比較的落ち着いてきたから大丈夫。
史菜、髪の毛伸びたね。こっちは髪の毛ねーよ。
詩織さん、頭のかたちめっちゃいいですね。
同じこと、看護師さんによく言われる(笑)
全身抜けてるから、眉も脇もケアしなくていいからいいんだけどね。
私、詩織さんの大学時代以外のことも、白血病のこともあまり知らないので、いろいろお話聞かせてください。
「白血病=骨髄移植」のイメージあるんですけど…これから骨髄バンクに登録したら、詩織さんの力になれる可能性がわずかでも上がるんでしょうか?
骨髄移植が一番よく知られている治療法であるんだけど、それ以外にも抗がん剤治療や放射線治療なんかがあるんだ。
一言で白血病といってもいろんな種類があって、私の場合は「急性リンパ性白血病・Tリンパ芽球性白血病」。心臓や呼吸器官の近くに、腫瘍があるのよ。
白血病とわかる前に、仰向けで寝ていて苦しかったのはこの腫瘍のせいだったってこと。
腫瘍があると、どんな治療になるんでしょうか。
まずは腫瘍を小さくする治療をするの。腫瘍がでかくなることによって、呼吸ができなくなったり、心臓が圧迫されたりするリスクがあるからさ。その上、血栓ができて脳梗塞になる危険性もあるし。
そうか…併発する病気の危険性を考慮した治療が必要になるんですね。
その上で、抗がん剤治療が始まる前にステロイドを投与して、腫瘍を小さくして、尿と一緒に排出していく。そのあとに、抗がん剤で細胞をやっつける。
がん細胞をやっつけるには「良い細胞」も一度落とさないといけなくて、その中に白血球も含まれるのね。だから、白血球が一気に下がる時期があってさ。免疫が一気に落ちるからだるさや、発熱、粘膜の炎症なんかで辛いんだよね。
これからの治療スケジュールは決まってるんですか?
髄液を抜く「骨髄穿刺(こつずいせんし)」の結果を見て治療計画を立てていくから、まだ決まってないの。移植も含めて選択肢になってくる。
体内の「がん」が全てなくなることを「完全寛解」というんだけど、その状態になってからも「地固め療法」として抗がん剤治療を定期的に続けて、白血病細胞を根治させ、再発を防止していく必要があるんだ。
最初の治療で「完全寛解」になったとしても、外来での治療でさらに最低2年間は化学療法が続くんだ。結構長い戦いになるってことを、いろんな人に知ってほしい。
治療中、免疫力はどれくらい低下しているんですか?
白血球の値は通常3000~5000なんだけど、私は低いと100とか。でもこれは、逆に抗がん剤が効いてる証拠でもある。
ああそうか。免疫力の低下は、病気の症状ではなく治療の効果ということですもんね。
うん。そう考えると、無事に今日を迎えられているのはラッキーなんだよね。
どういう経緯で「白血病」だとわかったんですか?
仰向けになって寝ると咳が出て辛かったから最初は喘息だと思ったの。循環器科では原因がわからず、整形外科では「炎症」と言われ、2週間くらいそのまま働いてたんだけど、どんどん症状が重くなってしまってさ。さらには口から空気が抜けていくような音がするの。
レントゲンを取ったら、胸水が溜まっていることがわかって、やっと大学病院へ。まず、採血して尿検査、痰検査、CT診察…。そこで胸水に加えて、腫瘍が見つかったというわけです。
そのころには、もう「喘息」ではない、何か大変なことが起きていると予感されてたってことですよね。
お医者さんに「ご家族いますか?」って辛そうな顔で言われて、これは何かあるなと思ったね。
悪性リンパ腫の可能性があると言われて、足が震えた。
でも腫瘍の一部を取って生体検査に出さないと悪性リンパ腫なのか白血病なのか…病名が出ないの。だから、その結果が出るまでの数日間、何も治療ができないまま過ごすしかなかったのが大変だった。もちろん薬もないし、ただ苦しんで病院のベッドに寝ているだけ。
診断前だから薬も出せないのか…。悪性リンパ腫や白血病については知識をお持ちでしたか?
ちょうど、フリーアナウンサーの笠井信輔さんが悪性リンパ腫だと公表したころだったから、なんとなくどんな病気かは知ってたんだよね。
でもこれまで病院知らずの健康体だったから、ほとんど知識はなかったよ。
しかも、生検手術は全身麻酔で行われることが多いんだけど、呼吸にリスクがあるから局所麻酔でビニールを体にかけてやったの。オペ室の雰囲気とビニールの圧迫で血圧が30/50に下がってるのがモニターに映って…。あれは焦ったね。
それは焦るや…。
悪性リンパ腫か、白血病かわかるまでの2日間、一般病棟からクリーンルームに移りました。常に酸素チューブで呼吸を補助していて、ドラマで見るような心拍測定の機械がピコピコなってた。
2月27日に家族と一緒に、「急性リンパ性白血病・Tリンパ芽球性白血病です」って言われたときには、もうなんとも言えなかった。
一方で、この辛い症状は病気によるものだと明確にわかって安心する気持ちもあったな。
正直、詩織さんが白血病になるまでは「どこか遠くの病気」「レアな病気」なんて自分とは程遠い病気だと思っていました。
そういうもんだよね。
私も知識がなかったから、白血病だとわかったとき「抗がん剤=きつい=死ぬのかな」って思った。問診票に「余命があったら本人に伝えて欲しいですか」っていう項目すらあってびっくりしたよ。
24時間サッカー漬け
少し時間を遡って、詩織さんの幼少期について教えてください。
生まれも育ちも横浜。私の人生はサッカーなしには語れないな。
いつからサッカーを?
小学校のとき。生徒数少ない小さな学校でさ。男子たちと夜の9時くらいまで校庭でみんなでサッカーしてたの。
小学生で?不良だ〜!
中学2年のときに横浜に女子サッカーチームができて、そこでサッカーするように。
当時はコンビニ行くのにもサッカーボール持っていっていたし、小野伸二選手が好きすぎて、彼が使ってるのと同じボールと一緒に寝てた(笑)
女子サッカーチームに入れたのは良かったけれど、できたてのチームだったからチームづくりがとても難しくて。だから、高校は歴史と伝統のあるサッカー部を目指すことにしました。
それが湘南学院ですね。
それまで週3回の練習しかしたことがなかったから、そもそも毎日練習がある部活についていくのに必死だった。レベルも高くなったしね。
部活から帰ってきてバッグ背負ったまま寝ちゃうくらい疲れ果ててた。それでも自主参加の朝練は3年間毎日やったね。
そのときって「なでしこに入りたい!」とか将来のこと考えてましたか?
全然何も。目の前のことで精一杯でさ。でも3年生の時になんとなく「体育の先生になるかなあ」って思い始めた。湘南学院には先生を目指している人が多かったからかも。身近な職業だしね。
少なくとも、サッカーを辞めるって選択肢はなかったかな。やんなきゃいけないっていうか、なくなることが考えられなかった。
それほどまでにサッカーが大好きだったんですね。
3年生の引退直前で、初めて県大会以上の試合でスタメンに選ばれたのね。その試合を経て、大学でもサッカーがんばろうって思えた。
大学はどうやって選んだんですか?
国士舘大学に女子サッカー部ができると聞いて見学に行ったの。監督の先生と、部活を立ち上げた先輩たちの頑張る姿を見て、ここが良いなって直感で思って入学を決めたよ。
4年間、ひたすら練習した。グランドを自由に使えたし、コーチに聞いたらちゃんと答えが返ってくるし、サッカーに集中できる環境だったと思う。試合もいっぱいさせてもらって、環境に対して全く不満はなかったな。
卒業後の進路については考えが変わりましたか?
教員よりも、サッカーチームを支える運営側の方が自分に合ってると思うようになった。
サッカー選手として全国制覇することは自分のレベルを考えても難しいとは感じていたんだけど、チームを支える方なら叶えることができるかなって思って。それで、サッカーチームをもつ会社に就職しました。
父の死
そう考えると、ずっとサッカーに関わっておられますね。
実は、サッカーチームのある会社と言えども、最初からサッカーに関われるほど甘くはなくて。
結局、最初に勤めた会社を半年間でやめて、JFA(公益社団法人日本サッカー協会)でバイトすることに。
おお、そうだったんですね。
そんな時、島根に住むおじいちゃんが亡くなって、葬式に行ったのね。そこで父さんが親戚に「こいつ、JFAで働いてるんだよ」ってとても嬉しそうに話していたんだよね。実際は指示を受けて消極的に働くことしかできてなかったからその言葉を負い目に感じたし、そんなに誇りに思ってくれるんだったら、もっとしっかりサッカーに関わりたいと思ったの。
いろいろと求人を調べてたら、島根でサッカーチームの求人を見つけてすぐ連絡したんだよね。
生まれも育ちも横浜なのに、急に島根への移住を検討し始めたってことでしょうか。
島根は何度も帰省して、なんとなく好きだったから抵抗はなかったんだよね。そしたら、そのサッカーチームの社長が新横浜まで会いに来てくれて。
すごい!熱烈なアプローチ!
「一度、サッカースクールの様子を見てほしい」って言われて、父さんと運転交代しながら島根まで行ったんだ。それが結局、父さんとの最後の旅行になっちゃった。
見学した時には、すでに自分の中でこのチームで働くっていう選択肢しかなくなってた。こうしてサッカーチームが自分を必要としてくれていることが嬉しかったし、むしろ「拾っていただいた」という感覚でした。
そこでの詩織さんの役割は?
スクールとジュニアユースの事務や広報から週二回のスクールコーチまでなんでもやったよ。キッズや小学生以外にも、大人たちのスクールもあってさ。おじさんたちも、みんなサッカーを超楽しみにしてるのがひしひしと伝わってくるの。
そこでの仕事は、自分に合ってると感じましたか?
うん。当時、島根県は女子サッカー人口が少なかったから、国士舘でサッカーしてたっていうだけで、選手たちも保護者の方々もすごく喜んでくれたの。私と同じ背番号だっただけでジュニアユースのお母さんが喜んでたりとか。いやお子さんの方がお上手ですけどって思ったね。
ジュニアユースの子からは、「コーチ、合コンとかしなくてダイジョブ?」なんて言われたりしながら楽しい時間だった(笑)
濃密な時間でしたね。
大会運営で忙しいゴールデンウィークが終わって一息ついた時に、母さんから電話がかかってきたの。「家でボヤ出ちゃったから帰ってきて」って。「ボヤ」って聞いてたから、楽観視しながら帰ったんだけどさ。
でも横浜に帰ると、父親が熱傷患者用のベッドに入院していてさ。「ICU(集中治療室:Intensive Care Unit)」ってよく聞くけど、その上が「EICU(救急集中治療室:Emergency Intensive Care Unit)」。本当に病床も限られているところに父親がいたんだよね。
面会も1日10分まで。メットとエプロンをして、できるだけ無菌状態にしてからしか入室できない状態だった。
そんな…。
熱傷患者なんてもちろん見たことないじゃん。皮膚移植できていない生やけどの状態。正直、ショックが大きくて明確に覚えてないけど…衝撃で。
父さんは鎮静剤を打たれて意識はなくて。そうしないと耐えられない痛みもあるし、ふとした時に鏡に映った自分の姿を見てパニックになる恐れもあるんだって。6回皮膚移植を予定していたけれど、全部成功しても確実に介護が必要だし、家は全損してるし、自分は一人っ子だから、横浜に帰るしか選択肢がなかった。
島根の会社は退職を本当に残念がってくれて、いまだに「落ち着いたら戻ってきてもいいよ」とまで言ってくれてる。横浜に帰るという選択を応援してくれたこと、感謝してる。
どんな気持ちでその頃を過ごしていたんですか?
面会に行くことで義務が果たされる感覚があったな。10分話しかけて、帰るルーティーンを毎日繰り返してた。父さんからほんの少し反応が返ってくる日もあってさ。
「綺麗な看護師さんとイケメンのお医者さんばっかりでよかったね」なんて話しかけてた。笑いにかえていかないと、やりきれなかった。
目の前の現実を、受け入れられたってことでしょうか。
「これからどうしよう」って気持ちはあんまりなかった。
でも、移植手術があと一回って時に、急に容体が悪くなってしまい、「このまま何もしなければ、今日亡くなると思います」って言われたの。
「感染症にかかっているので、人工肺を3日間装着して自己回復する1%の可能性にかけるか、これ以上きつい治療をさせずにこのまま見送るかどうか10分で決断してほしい」って言われて。それが今、コロナの重篤患者によく使われているECMO(エクモ:Extracorporeal membrane oxygenation)っていう体外式膜型人工肺なんだけどね。
ニュースで見たことがあります。とても大掛かりな処置なんですよね?
鼠径部にすごい太い管を入れるんだって。ECMO装着に7時間、医療スタッフが何十人も必要な手術なんだよ。
それまで母さんも私も気丈に振る舞ってたけど、号泣しながら話し合って、結局、島根から親族が揃うまでの延命措置としてECMOをお願いすることにした。機械のスイッチを止めてから10分しか生きられないと聞いていたんだけど、結局2時間くらい生きてた。
結局助からなかったけれど、病院の皆さんには本当に感謝してる。今、父さんと同じ病院に入院してるんだけど、全てを委ねられる安心感があるのは、その時の経験があるからだね。
お父さんが亡くなられて、一番変わったことはなんですか?
父さんが亡くなった直後は、自分が幸せになることはないなって思った。これから、いいことなんてないんだろうなって。でも、気持ちの整理がついてからは逆に、一番寂しいのは母親の方だって思ってさ。私が家族を作れば、母さんも寂しくないかなって。
その時初めて、結婚したい、家族がほしいって思った。
去年の10月、結婚されたんですよね。それまで彼氏の気配なかったのに、急にインスタに出てきてびっくりしましたよ(笑)
そうそう。あんまりSNSにあげてなかったからね。会社の後輩なんだけどね。ガキンチョだよ(笑)
お父さんが亡くなられてどれくらい経ちましたか?
5年だね。5年間毎日思い返すの。「生きててくれたらな」とか「あんなことあったな」とか。だからまだ、気持ちの整理はついていないんだけど、気を紛らわすためにめっちゃ働いた。父さんは仕事を一生懸命する人だったから、「もっと働きたかっただろうな」って思うと、仕事サボれなかった。
自然に時間が解決してくれるというのはあると思う。自分が切り替えようと思っても、切り替えられるものではないしさ。
なるほどな…。詩織さんの変化という意味では、ほかにどんな変化が?
医療従事者への感謝が増した。
「医療従事者」って聞くと、看護師と医者しかイメージにないでしょ?でもそれだけじゃない。薬剤師、医療物品を運んでくれる人、医療事務の方、警備員、掃除のおばちゃん…みんなに感謝してる。コロナの感染拡大で「医療従事者への感謝を」なんてめっちゃくちゃ言われているけど、それは父さんがお世話になってた時からすごく思ってた。
私は病院にお世話になったことがほとんどないので、病院の中でどんな人たちがどんな風に働いておられるか、リアルにイメージできずにいます。
あと、父さんが亡くなってから家族がいる横浜から出ていくのはやめようと思った。自分が近くにいれば、もしかしたら家族を守れたかもしれないと思ったんだよね。
サッカー仲間も、親友も、ほとんどがこの街にいるしね。