をかしのカンヅメ Vol.5
公開日:2019_10_01

「全ての人に才能がある」ー彼女の歌詞に込められた哲学とは|作詞家・中村彼方

Guest:中村彼方さん / Text:中崎史菜

インタビューを前にTwitterで「中村彼方」と検索してみる。

「とりあえず中村彼方先生は神」
「中村彼方神さん俺の好きな曲ばっか作詞してて笑っちゃった」
「我らが神・中村彼方」

・・・「をかしのカンヅメ」6記事目にして早くも、神に取材する日が来てしまったようだ。

恐る恐る神の呟きを覗くと

「ハンバーグかわいい」と宣うている。

その神は韓流アイドルグループ・少女時代の「GENIE」や「Gee」に日本語詞を作詞し、テレビアニメ『結城友奈は勇者である』シリーズなどの作中歌作詞を手がけ、さらにはミュージカルとアニメーションの二層展開式少女歌劇『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』では作詞だけでなく脚本までも担当している。

なぜ「作詞家」という道を選んだのか、「歌詞」をどう生み出しているのか、話を聞いた。


ヒットソングの歌詞をひたすら書き写していた

早速なんですが、お名前が気になっておりまして。 「中村彼方」という名前で活動されていますが、由来を教えてください。

本名は「かなえ」なんですよ。ユニセックスな名前にしたくて彼方にしました。作家や作詞家で名前が先に出ると、女性か男性かっていう先入観で見ちゃうんですよね。「フラットに見てほしい、謎めいていたい」という気持ちで名前を設定しました。

実は、中村彼方っていう名前は作詞家になるずっと前、19歳くらいのときに決めていたんです。「文章を書くとしたら中村彼方でやりたい」って。

作詞家になろうとする前から、すでに名前が決まっていたのか・・・。
でも、「文章を書くとしたら」ということは、子供の頃から明確に”作詞家”を目指していたわけではないんですね。

はい。自分の好きなことを仕事にする方法がわからなかったという方が、正しい表現かもしれません。

出身は長崎の佐世保っていう田舎。

周りはみんな当たり前のように高校へ行き、大学へ進学していたから、やりたいことを仕事にしている人がいなかったんです。周りに音楽関係の仕事をしている人はいなかったし、どうやってそれでお金をもらうのかわかりませんでした。

私は”歌詞”がずっと好きで中学校の頃からヒットソングの歌詞をジャンル関わらず全部書き写していました。ビジュアル系もアニメも、ロック系も、ランキング30位以内に入っている曲は全部研究して。

そして純粋に「歌詞が好き」という気持ちだけで、中学生のときから思いついたワンフレーズや物語を、自由帳を何冊も使って書き続けていたんです。

その中の一ページに「中村彼方」というペンネームも書き記していました。

中学の頃から、思いついたワンフレーズを書き留めていたという彼方さん

「どうやって作詞でお金をもらうかわからない状態」から、作詞家になった経緯を教えてください。

高校生の時、周りが当たり前のように大学進学を決めていたので、私も「何かわからないけど、東京に出ないといけない」と思って受験しました。

それで成城大学の文学部に入学。まあ、大学はあんまり行ってなかったんですけど(笑)

進学先は「作詞」に直接関わる学部ではなかったんですね。

そうなんです。

ある時、友達が主催するホームパーティーに呼ばれて行ったところ、コピーライターの方に「君、何かアートやってる?」って聞かれたんです。「ポエムやってます」って答えると気に入られて、一度事務所に来てほしいと言われました。上京したてだったからその怪しさにも気づかずにいたんですよね(笑)

それが「東京モダンアート娘」っていうアートユニットだったんですよ。「書道家」「イラストレーター」「カメラマン」「日本画家」「メイクアップアーティスト」‘・・・
一芸に秀でた9人の女の子たちが芸術関係のイベントでパフォーマンスをしているグループでした。

そこに「ポエマー」枠で入ることに

ポエマー枠!具体的にはどんな活動をされていましたか?

そのグループのコンセプトが「自分たちをプロデュースしてる、操り人形じゃないアイドルなんだ」というもの。プレイヤーでありつつ、プロデューサーなのだということです。

衝撃的で前衛的なアートをアンダーグラウンドでやっていました。顔に生肉を貼ったりとか。

顔に生肉・・・!?

全てのパフォーマンスがいわゆる「アイドル」に対するアンチテーゼ。

顔に生肉を貼った上に仮面をつけて出てきて、歌い踊りながら仮面を外して、肉を鉄板で焼いてファンに配る、みたいな。つまり、自分を切り売りしてるアイドルを意味しているんですよ。

あとは東京ビックサイトに霊柩車を入れて、その前で世界中で自殺したアイドルたちの名前を叫ぶ、とか。

かなりファンキーですね。そのグループにはどれくらい所属されていたんですか?

大学よりもそっちの活動が面白くて4〜5年くらいやっていました。

このグループを仕切っていたのはエンタメ界のど真ん中にいる人たちだったし、メンバーはほとんどが美大生だったので、いろんな刺激やカルチャーショックを受けました

メンバーそれぞれがもっているこだわりがあるので、衝突するんですよ。さらにはミーティングに誰一人時間通りにこない自由奔放さもあって(笑)

ポエマー枠ということでしたが、その頃から少しずつ作詞もされていたんですか?

はい。活動の中でテーマソングを書く機会があったので、それが私の最初の作詞です。

「好きなことを仕事にしている人たち」を目の当たりに

グループを引退し、作詞家としての活動を始めた経緯を教えてください。

大学を卒業して、「この活動で生きてはいけないし、何かをやらないといけない」と思って。

「東京モダンアート娘」の活動を通じてアートを仕事にしている人やメディア関係の人のお話を聞くことで、「好きなことを仕事にしても食べていけない」「好きなことが嫌いになってしまう」という先入観が粉々に打ち砕かれたんです。

それで私も一回挑戦してみようと思い、音楽の制作事務所にそれまで書いた歌詞を送って、コンペのチャンスをもらいました。

スタートラインですね。その事務所と契約を結んだってことですか?

最初は契約を結ばずにコンペの情報をもらって、ひたすらコンペを繰り返しました。

1年後に決め打ちの仕事をもらえて作詞家としてデビューしたって感じですね。

その1年ってどういう思いで作詞をされていたんですか?
1年で結果が出る保証は、どこにもないわけですよね。

コンペの頻度は1〜2ヶ月に1回くらいですし、歌詞をメールで送るだけなので、自分の歌詞が読まれてるかすらわかりませんでした。

「本当に大丈夫かな」「意味があるのかな」という気持ちで悶々としてたなあ。バイトをしていたので生活はできていたんですけど。

ただ、最初に拾ってくださった社長が「30歳までは諦めるな」ってタイムリミットをくれていたので、当時25歳だった私は「そこまでは頑張ろう」という指標にしていました。

その社長は「30歳までに花開くやつと開かないやつがいる。開かなければまた違うことをすればいい」って。

ゴールの見えない真っ暗闇にいるというよりは、「あと5年はやってみよう」という気持ちだったんですね。

「これがいつまで続くんだろう」っていう気持ちだと「一生花開かないかもしれない!」って不安だったと思うんですけど、30歳までは頑張ろうって思えましたね。そしてそのお陰もあってか、1年でデビューできました。

かなり前倒しになりましたね(笑)
その1年間はバイトをしながら歌詞を書くだけの生活をされていたんですか?

コンペを待っているだけではやることがなくて暇で、自分の足で開拓していかなければならないという気持ちが生まれ、DJをはじめました。

最初はクラブ遊びが楽しくて。すると「自分たちの好きな曲をかけられたら楽しいんじゃない?」って思うようになって、友達とガールズDJのユニットを立ち上げて

消費するだけじゃなくて、自らその環境を作ったのがすごいです。

その頃ガールズDJがすごい流行っていたんですよ。ブームに乗った感じでDJとして4年くらい活動しました。

その時に出会ったのが「少女時代」のディレクターだったので、日本語で歌詞をつけるコンペに挑戦する機会をもらえたんです。

それがきっかけだったんですね!
もともと歌詞を書き写したり、ポエムを書いたりと言葉にこだわっておられたと思うんですが、必ずしも「作詞」じゃなくてもよいですよね。それがなぜ作詞だったんでしょう?

私、歌が好きだったんですよ。たった3〜4分の間にストーリーがあって、言いたいことがあって、歌う人の説得力があって、メロディのドラマがあって、目で楽しむミュージックビデオがあって・・・。

歌はすごく短い物語だと思ったんです。限られた文字数の中に、どれだけの情報がこもっているんだろう、って。

本一冊読み切るのに時間かかるけど、歌だったら数分で入ってきちゃう。短時間で新しい物語が生まれてくることに魅力を感じたんですよね。歌は短い分、説明的なことはないですよね。

確かに、余白部分が大きいですよね。

余白がある分、共感者も多いのではないかと思いました。私自身、いろんな歌を聴いて、体験してないことにも共感して涙を流していたので「そんな共感を作れればいいな」と。

歌が好きだった、ということですが、それは小さいときから?

私はキリスト教で、小さい頃から教会で賛美歌を歌っていたので歌うことに抵抗がなかったんです。小さい時から歌うことが好きでした。

一番強く残っている記憶は、幼稚園の時に買ってもらったカセットテープつきの絵本です。ひたすら読んで、聴いて、歌って・・・をやっていたのを覚えています。

確か、日曜日の8時にやっていた「フランダースの犬」とか「小公女セイラ」とかハウス食品提供のアニメ番組の歌を集めた本でしたね(笑)

今でもその曲が流れると歌えるんですよ。

柔軟になることを学んだフランス留学

ほかに、彼方さんにとっての人生のターニングポイントはありますか?

やっぱり留学かなー。

高校2年でフランスに留学しました。

母校がめちゃくちゃ進学校で、みんなが受験に向けて先生方からお尻を叩かれている中で留学を決めたんです。

なぜフランスに留学することに?

故郷の佐世保には米軍基地があって、母が私を米軍の家族に預けていたので英会話はなんとなくできていたんですよ。

だから第二外国語を学べたらかっこいいし、ご飯も美味しそうだしと思って…そんな単純な理由で選びました。

母校には「国公立大学に進学しなさい」っていう風潮があって、それが当たり前に思っていたんですけど、フランスに行ってそれが当たり前ではないことに気づいて

編入したフランスの普通高校が、大学みたいだったんです。

大学みたい、というと?

好きな授業で時間割を組む単位制なんです。自分の教室もないんですよ。「進学校」って言ってるのにこんなんでいいの?って驚きました。

向こうは16歳でタバコOK、アルコール度数が低ければ飲酒もOKだし。ホームステイだったので、いろんな家庭があることも知れて。

「これが正しい」って思うこと自体が無駄だな、と思いました。国どころか、家族によってルールは違うし、それは正しいか正しくないかじゃなくて「だってそうだもん」って言ってのけてしまう雰囲気があって。

今まで自分がいた家、学校で言われてることって、それが正しいから言われてるんじゃなくて、誰かの勝手な価値観なんじゃない?と思うようになりました。それまではルールは絶対に守る真面目な高校生だったんですけど、自分の塩梅で変えていいっていう緩さを持てるようになったんです。

当たり前が当たり前じゃない、っていう気づきは大きいですね。

柔軟になることを学びました。

フランスでは生徒が先生に「火を貸して」って言うんですよ。先生も「はい」って火をあげる(笑)

なんで日本ではタバコ吸っちゃいけないんだろう。って思うようになりました。ルールには必ず理由があるから、それが「体に悪いから」であれば理解できます。でもそれが大人のエゴからくるものであってはいけないと考えるようになりましたね。

私が富山から上京した時や、3ヶ月間アメリカで滞在した時のカルチャーショックは大きかったです。
「なんで」って思うことばかりで、自分が当たり前と思ってたものは必ずしもそうではなかったと気づきました。
そう言った気づきを得るには、環境を変える必要があるんでしょうか?

肌で感じると衝撃は大きいですよね。環境を変えるのが手っ取り早いとは思います。

環境を変えるという話で言えば、彼方さんは今、故郷を離れておられますよね。その理由は何ですか?

5年ほど前に半年間佐世保に戻ってたことがあったんですけど、夜が早くて朝が早いんですよね(笑)

だから、そもそも生活時間帯が合わない不便さがあって。

一番住みやすいところは人それぞれだと思います。私は東京の水に馴染んでしまいました。一周回って東京に戻ってきて、ここで骨を埋めようと思ったんです。

住む場所に関しては、年齢にもよると思うんですよ。バリバリ仕事したいときはフットワーク軽くいられる都会に、子供を育てようとか老後静かに暮らそうとか思えば、田舎に戻ってもいい。でも少なくとも今の私は東京が楽しいなって思っちゃいます。

まあ、一番はどこでもドアがあればいいな。一瞬で佐世保に帰れたら家賃も安いし、お魚も美味しいし。

確かに・・・!私も欲しいです(笑)
今、ご結婚されたばかりですよね。結婚生活はどうですか?

楽しい!本当に幸せなんです。今日も晩御飯作ってからここにきました。協力して生きていく感じがして楽しいです。

・・・ここだけの話、ストレスってないですか?

相手によるんでしょうけど、今は全くないですね。

相性がいいんだな、結局、人間って相性なんだなって思いました。


幼少期のエピソードから、留学の経験、そして「作詞家」になるまでの経緯を聞いた。

後編では、仕事の進め方や原動力について伺った。

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