Guest:酒井潤さん / Text:中﨑史菜

私が会社を辞めて、3ヶ月シリコンバレーに滞在していたときのこと。衝撃的な出会いがあった。

大学卒業までプロサッカー選手を目指し、サッカーしかやってこなかった日本人が、現在シリコンバレーでソフトウェアエンジニアとして年間5000万円超稼いでいるというのだ。

どんな方なのだろうと思ったら、非常〜〜〜〜に物腰の柔らかな方で2度驚いた。

それが、シリコンバレーエンジニア・酒井潤さんと私の出会い。

それから2年。縁あって、酒井潤さんデビュー作「複業の思考法」のライティングをお手伝いさせていただくことができた。

今回のインタビューでは、書籍の中身にもすこ〜し触れながら、酒井潤さんのこれまでの人生について伺ってみた。

※2020年9月27日(日)10:00〜(日本時間)、酒井潤さんのオンライン講演会を開催します!詳細は下記をご覧ください。


手を伸ばせば届いた、プロサッカー選手という夢

酒井さん、本当に大学卒業までプロサッカー選手以外のキャリアを考えたことはなかったんですか?

はい、そうなんです。

正直な話をすると、大学時代にJ1のガンバ大阪などからお声がけいただいていました。でも、膝の怪我をしてしまって、思い通りのプレーができなくなってしまったんです。それでプロに行っても、1年しか持たないだろうと思った時に、次のキャリアを考え始めました。

「Jリーガー」という夢が叶いそうなところにあったのに、すんなり違う道を選べたのでしょうか?やはり、そこに葛藤はありましたか?

靭帯を切って、パフォーマンスがまったく出なくなったときはもちろんショックを受けましたが、それまで世界大会などで「貧困」を目の前で見てきた経験が、挫折を乗り越える力になりました。

例えばインドに行ったときに、孤児や、手足を失った子、環境のせいで何をやっても成り上がれない人たちと出会いました。孤児院に行ったときは、「お金がないので、2~3年でこの子たち死んじゃうですよ」なんて話も聞かされました。

こういう話を聞く機会はあると思いますが、「見る」機会ってなかなかない。そういう物事に直接接して、そういう苦労に比べたら、自分がサッカーできなくなるぐらい全然大丈夫だと思えたんです。

究極の貧困を目の前にした経験が、酒井さんを前向きにさせたんですね。

大学時代自分よりもサッカーが下手だった選手がJリーグで活躍しているのを見て、自分もJリーガーとして活躍できたかもしれないと思うことも、正直ありました。

自分はリスクを全て想定して「戦略的」な選択をする傾向にあるんです。もっと「サッカーバカ」になって、プロサッカー選手になっていれば良かったのかもしれませんね。

ただ、今はキャリアとして自分でも納得するぐらい成功できたと思っているので、全然後悔していないんですけど。

「戦略的」だったからこそ、今、アメリカの給与ランキング4位の会社でエンジニアとして働くことができているんですもんね。

戦略的な人生選択

「戦略的」な酒井さんの人生について、もう少し遡って聞かせてください。

サッカーを始めたのは、小学生のときでした。一番印象に残っているのは、ジーコ監督のサッカー教室に参加したときのこと。

「学校の勉強をせずに、サッカーの練習をするくらいサッカーに打ち込まないと、サッカー選手にはなれないんですか?」と僕は質問しました。

「ブラジルには、サッカーだけやっていても選手生命が終わってスラム街に行く人がいる一方、ソクラテスという選手のようにプロサッカー選手でありながら医者の資格を持っている人もいる。サッカーと同じくらいに、勉強も一生懸命やりなさい」

それがジーコ監督の答えでした。

それがきっかけで、勉強にも真剣に取り組まれていたから、今シリコンバレーでエンジニアとして活躍できる礎ができたということでしょうか?

そう思うでしょう?

でも、全教科を頑張るだけの時間はありませんでした。サッカーに圧倒的な時間を割いていたからです。そこで、好きだった数学に絞って勉強していました。

数学の勉強が活きているというよりは、小学生の段階で時間の使い方を自ら取捨選択できたのは本当によかったと思っています。

私は高校生の時までずっと、「まんべんなく、どの教科も優秀な成績を収めなければならない」と思い込んで、それを疑いもしませんでした。
酒井さんのように、人に言われたことも一度疑って、自分で選択していたら違う人生だっただろうな…。

先生が言っているから、偉い人が言っているから、テレビで言っているから…そんな理由で、安易に信じてしまうことってすごく怖いこと。自分の手で調べて、自分が確信をもてる選択をすべきだと思いますよ。

高校はどちらへ?

高校は渋谷教育学園幕張高校に進みました。卒業生で有名人なサッカー選手といえば、闘莉王選手が挙げられますね。

千葉県大会では船橋市立船橋高校(市船)や八千代高校に負けて、全国大会には行けませんでした。県の国体選手としては選ばれていたので、国体選手として全国大会へは出場しましたが。

その後は同志社大学でサッカーを続けられたんですよね?

はい。サッカー推薦で同志社大学に入学しました。

サッカーをやるために大学へ入ったので、学部は神学部。勉強したことは何も頭に残っていません(笑)

大学にサッカー推薦で入れるという時点で、卓越したサッカー能力を持っておられたのだと思います。ご自身ではサッカーのどの部分が評価されていたと思いますか?

自分の強みは、スピードとドリブルのテクニックです。今でもテクニックだけだったら、Jリーガーにも負けない自信があります。

自分は身体が大きい方ではないし、身体能力で劣る選手はたくさんいるけれど、「勝てるところで勝つ」というのは小さい時から意識していました。

「勝てるところで勝つ」というモットーが、サッカーからIT業界に身を振るというキャリア選択にも反映されているような気がします。
ところで、なぜエンジニアになろうと思われたのですか?

サッカー選手になるという道が途絶えたところで、弁護士や公認会計士といった「士業」や、医者ならば資格さえとってしまえば勝負できるのではないかと考えました。

3つとも、資格取得のレベルがかなり高い職業ですよね。大学で勉強されていなかったことを、卒業後にゼロから勉強することに抵抗はなかったんですか?

例えば医学部で6年間勉強したといっても、365日×6年みっちり勉強した人っていないと思うんですよ。サークル活動もしているだろうし、バイトもしているでしょ?

そういった時間をギュッと凝縮して勉強時間に充てれば、ちゃんと資格が取れると思ったんですよ。

おおお…確かに、そう考えると可能性があるようにも思えますが、サッカー関係の仕事に就くという選択肢はなかったんでしょうか。

もちろん、最初に考えました。サッカーコーチやトレーナーをやりたかったんです。

でも調べてみると、給料が少なかったんですよね。当時、月に手取り10万〜20万円でしたから、家族を持ったら養えないと思い断念しました。

逆に、弁護士や医者などの高収入の仕事に就ければ、空いた時間にサッカーコーチをボランティアですることができます。人生のどこかで、サッカーに関われればよいと思って。実際、今はサッカーチームでサッカーを教えたり、サッカー動画をアップするYouTubeチャンネルを運営したりしています。お金と時間に余裕が持てたから、好きなサッカーに戻ってくることができました。

なるほど。給与が良い職業として弁護士や医者が候補に上がったわけですね。
それがなぜ、エンジニアに?

IT分野に興味を持ち始めたのは神学部の教授の言葉がきっかけでした。

「今後はITと英語の時代。それだけやっていれば食っていけるよ」と言われたんです。

ITと一口にいっても、ネットワークやデータベースなどいろんな分野があり、その中にさらに細かい技術がある。そのうち一つでも習得できれば、そこでプロフェッショナルとしてやっていけると気付きました。

当時、リーマンショック前でIBMのプログラマーの年収は5000万円ほどでした。必死に勉強して弁護士や医者を目指すよりも、エンジニアになった方が稼げると思ったんです。スタートが遅れていても、挽回しやすさがあるというのも自分にとってはメリットでした。それでエンジニアになるべく大学院へ進学することに。

神学部から情報系の大学院への進学となると、文系から理系への転換ですよね。
受験は大変だったのではないですか?

まず、文系の大学卒で受験できる大学院を探すところから始めました。全国の大学院を全て調べたんです。

全て…?

はい。北海道から沖縄まで本当に全部調べました。

そして、北陸先端大学院情報科学研究科の専攻科に進学することになります。他にも受験した大学院はいくつかあったのですが、神学部卒と聞いただけで「神学部?無理無理。受験しに来ないで」と門前払いしてきた教授もいました。本当に悔しかった。

今の酒井さんの姿を見せてやりたいですね。

大学4年の冬ごろから、大学院に早めに行き始めました。他の学生よりもスタートが遅いからといって、教授が先に勉強させてくれたのです。

思い返してみれば、中学生のときは高校の練習に、高校生の時は大学の練習に、早めに参加していました。先にチームに馴染めば、レギュラーになりやすいと思ったからです。スタートダッシュがはやく切れれば安心ですからね。

大学院ではどう過ごしておられましたか?

孫正義さんがスピーチでよく「寝る以外は勉強していた」と学生時代を振り返っておられますが、まさにそんな感じでした。遊びにも行かず、ひたすらに勉強していました。

ちょうど、ホリエモンが出てきたITバブル全盛期。そんな風潮も、自分の勉強を後押ししてくれたと思います。

卒業後の進路はどう決められたのですか?

「伸びる産業」に身を置きたいと考えていました。せっかく時流に乗るIT業界に入るのであれば、その中でも将来性のある分野に就職したい、と。

教授にも相談しながら、携帯電話業界のNTTドコモに就職することに。

人気やご自分のやりたいことではなく、将来性で判断されたということですね。

僕にとってやりたいことって、サッカーだけ。サッカー以外の業界なら、どこに行っても一緒なんです。それなら、将来性があって、給料のいいところに進みたいですよね。

父が、貧困家庭に育った人だったというのも影響しているかもしれません。水道の水を飲んで空腹を紛らわし、苦学して宇宙開発に携わるまでになったので、「食うために、働く」という感覚を持った人です。

そんなこともあって、好きなことは稼いでからすればいいと割り切っていました。

就活中の人にアドバイスするとしたら、どんなことを伝えたいですか?

OB訪問したときの社員の印象とか、会社の雰囲気がいいとか、そういったことで就職先を決めない方がいい。何十年先に伸びるかどうか、自分にメリットがどれだけあるかを見極めてほしいです。

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