をかしのカンヅメ Vol.1
公開日:2019_05_25

作曲家→お笑い芸人→経営者。
「他人が決めた道」を突き進む福岡の天才|樋口聖典

Guest:樋口聖典さん / Text:中崎史菜

博多駅からさらに電車で1時間、1両編成の車両でたどり着いたのは「田川後藤寺駅」。
「ここに天才がいるらしい」そう聞いてやってきた。

その天才とは、方言をフランス語風に喋って話題となったCM「ンダモシタン小林」やお笑い芸人・ロバート秋山さんの「TOKAKUKA」の作曲をした樋口聖典さんだ。弟の樋口太陽さんは、お笑い芸人COWCOWの「あたりまえ体操」などの作曲を手がけたという。きっと音楽一家に生まれ、作曲をするために生まれてきたような人なんだろう。

そんな風に「やることが明確」でまっすぐ生きている人に話を聞けば、人生をどんな風に生きればいいかわかるかもしれない。

田川後藤寺駅前「一平食堂」の卵焼き

田川後藤寺駅前にある昔ながらの定食屋「一平食堂」で腹ごしらえをして、いざ、天才・樋口聖典の待つ「いいかねPalette」へ。


バンドマンから作曲家、お笑い芸人、そして経営者へ

樋口さんは東京で作曲家やお笑い芸人として活動されたあと、ふるさと田川市に戻って今度は経営者として「いいかねPalette」を運営されているんですよね。
「これだ!」と決めた道をまっすぐ進んでおられるのがとても羨ましくて・・・

そういう意味でいうと、ほとんど自分で決めたことはないですよ。

大抵、「きっかけ」がふらりとやってくる感じ。

例えば大学を決めた時もそう。

親から「九州大学に行け」と言われていたので、当然九州大学に行くものだと思っていました。

でも九州芸術工科大学というのがあると先生に教えてもらい、調べてみると音響設計学科ってのがあったんです。

なんと二次試験の受験科目が、僕が趣味レベルで大好きな数学と物理だけだったのと、音楽を幼少期からやっていたのでここに決めました。

大学に入ってバンドを組んだのも誘われたからです。

そしたらメンバーから「オリジナル曲作ろうや!」って言われたのでインディーズシーンでの活動が始まり、友達に「映画撮ろうや!」って言われたので映画制作団体を立ち上げ、劇中の映画音楽も作りました。

あとは・・・その監督が上京した際に「一緒に東京で色々やってこうよ」って言われたので、上京を決めたんです。

上京のきっかけまでもお友達からの誘いだったんですね。

そのあとお笑い芸人になったんですけど、その時も親友だった相方に誘われて、断ったら悪いなと思って入りましたね。

会社を作ったのも、弟に言われたから。

弟と僕は2人ともフリーランスで、ユニットみたいな形で活動していたんですが、弟が会社にしたいって言い出したんです。

面倒臭いから僕は反対したんですが、親の手前、フリーランスより会社の方が良いだろうと僕が社長になって株式会社オフィス樋口を立ち上げました。

「いいかねPalette」を運営している株式会社BOOKもそうですね。地元の友達から「今、田川市が廃校になった小学校で音楽事業しようとしてるから、お前応募してみろ」って言われ、応募したらこうなりました。

ちょっと待ってください。全部じゃないですか。笑

そういう人生なんですよ。

だから自発的に何かをしたくて始めた経験はほとんどないんです。

なんでもいいんですけど、やるって決めた以上はやるって感じ。

逆にいうと、ハマる場所をずっと探してるのかな。

今もまだ・・・?

今もまだです。

僕、死ぬまで田川で仕事し続けるかどうかはわからないと思っていて、この事業自体、僕がいつまでやるのか、やれるのかわかりません。僕の意志だけで決められるものでもないですし。

僕は本当のところ、人間との接触を絶って、山奥にこもってずっと本読んでいたいんです。そうして人と会わずに、自分の中にあるものだけで創作活動をしたらどうなるかとても興味があるんですが・・・でもまだ、人間界で学ぶことがあるだろうなと思ってここにいるような気がしてます。

なるほどなあ。樋口さんて、ものすごく客観的に自分の人生見ておられますね。
でも幼少期の出会いの中には、自分で選んだものあるんじゃないですか?
例えば音楽との出会いとか。

音楽について言えば、物心ついた時からピアノを習わされてたんですよ。

嫌々やっていたんですが、ちょっとやるだけで人よりリコーダーも歌も上手いし。

なんで周りの人たちはこんな簡単なことができないんだろうって思ってて。笑

羨ましい才能です。笑
音楽とはそもそも出会ったって感覚じゃないんですね。

気付いたら母親から「させられてた」って感じですね。

でも僕が中1の時に、中3のヤンキーの先輩が街の夏祭りのステージでバンドをやってるのを見て超カッケーとは思いました。

それでギターを始めてみたら、すぐに周りより上手くなって「お前すげーな」って褒められたんですよ。

音楽をやれば褒められるから、ずっと続けてきました。

本当は純粋に音楽が好きかいうと、微妙なんですよ。

褒められるからやってる・・・?

そう。子供の頃から20代の頃って褒められたくてしょうがなかった。

上京した時も「音楽クリエイターで飯食ってる」って言えばめちゃくちゃかっこいいじゃないですか?だからやってた部分も大きいです。

あ、「かっこいいもの」って強制してすいません。笑

いえ、ちゃんとかっこいいです。笑

あとは戦ってる感じが好きでした。

東京に1人で出て、フリーランスとして戦って、どんどん出世して食えるようになって、さらにTVから自分の音楽が流れるっていうのが気持ちよかったんです。

でもその実、音楽作ること自体は辛いことのほうが多くて。

もちろん、気持ち良さはあります。だって、目の前のクライアントに「樋口さんの音楽すごいよかったので、もう一回やってください!」って感謝されて、お金が振り込まれるわけですから。

「俺、世間の役に立ってる」って思えることが気持ちいい一方で、音楽を産み出す辛さはずっと消えませんでした。

上京当時から、音楽を作るときの辛さはあったんですか?

上京したとき、「僕の音楽の価値」はゼロですよね。その価値が徐々に上がっていくにつれて嬉しさもどんどん上がっていくんです。

でもこれ以上嬉しくないっていうラインがありました。仕事の報酬が3万円から10万円、20万円から50万円てめちゃくちゃ嬉しいんですけど、100万超えたあたりからなんかもう、変わんないっていうか。

もちろん、報酬額だけが幸福度や仕事の価値の指標というわけではないんですが、目安としてですね。

最初にTVで流れた時ってめちゃくちゃ嬉しいんですけど、100本目くらいになってくると「もっとこうした方がよかった」とか「これ、恥ずかしいから流さないで欲しいな」って今まで嬉しかったことが嬉しくなくなっていくんです。人間って慣れるから。

そうか・・・それはわからなくもないです。体験したことはないけれど。笑

忙しくなっていくばかりだし、責任も重くなります。報酬が安い仕事ってまだ失敗が許されるけど、報酬が高い仕事は絶対に失敗できないじゃないですか。

だから、満足度を辛さが超えたんです。

そこでふと我に返りました。

「なんでこんなきつい思いをして、こんなことやってるんだろう。これ以上お金はいらないし、承認欲求も十分満たされたから、この仕事をやめたいな」と。

それですぐに東京での音楽制作をやめたんですか?

いや、不安だからすぐにはやめられませんでした。お金の不安ももちろんですが、それよりも音楽制作をしなくなった瞬間に、自分のアイデンティティがなくなってしまう気がして。

僕はそれまでの人生において、「音楽」という武器を使って戦ってきたという意識がありましたので、その武器を急に捨てたときに自分がどうなってしまうかわからない不安がありました。

だからやめるにやめられず、鬱と正常を繰り返しながら、ときには2ヶ月間くらい休みをとったりしながら、音楽制作を続けていました。

旧猪位金小学校を利活用した「いいかねPalette」

作曲から距離をおいたのはどのタイミングだったんですか?
「いいかねPalette」を始めた時?

「いいかねPalette」でやってることも音楽事業なので、音楽をやめたわけではありません。なんなら、今でもちょくちょく音楽制作の仕事をしています。でも音楽制作だけを専門でやる段階はもう卒業したので、実績やスキルを使ってインキュベーションやったりとか、コミュニティ作りをやっていこうとしています。

こんなクソ田舎で、こんなでかい小学校跡をぶん回して、しかも最初しか補助金は出ないというのは、どう考えても難易度が高いですよね。

こんな悪条件下でやっていくには自分の能力や経験を最大限生かすしかないので、僕の最大の武器「音楽」を使わざるを得ない、というわけです。

樋口さんの人生は、何かとの出会いが導いてくれたというよりは、流れに身を任せてきたという表現の方が合っていますね。

そうですね。あえて「出会う」という言葉を使うなら「ずっと逃げたくて逃げられなかった状態から、やめる理由・逃げる言い訳」に出会ったって感じです。

「いいかねPalette」を運営している今が、人生で一番モチベーション高いかも。

でもさっき、ずっと田川にいるかどうかはわからないっておっしゃってましたよね。

うん。これをやるのが僕じゃないほうがいいなら、僕じゃなくていいんです。

でも、この施設を音楽で盛り上げるには、少なくとも現段階では僕がいないとだめだと、勝手に思いこんでるんですよ。

逆に東京での音楽の仕事には、僕の代わりはいくらでもいる

やりがいがあるというよりは、「本来いいかねPaletteのあるべき姿があって、そこに近づけたい」と言ったほうがしっくりきます。
その中で、「ここには自分がいないといけない」いうモチベーションでやっています。

先ほど、自分がぴったりハマる場所を探している途中だとお話されましたが、未来を少しでもイメージしていますか?

未来は全く見えてないですが、いずれ「発明家」のような仕事のやりかたができたらいいなとは思っています。

発明家って、締切も責任もないですよね。誰に対してもごめんなさい、って言わなくていいから。

「いいかねPalette」失敗したら、いろんな人にごめんなさい。

音楽を受注しても、失敗したらごめんなさい。

会社に入っても、ミスったらごめんなさい。

どんな仕事にも、人に頼んで頼まれる関係があるじゃないですか。そうするとミスったら謝らないといけないんです。

でも、子供の頃遊んでた時って、そんなに謝ってないはずなんですよ。

本当はそんな生活がしたいです。

・・・こんな話をして、読む人の夢を潰してないですか?笑

大丈夫、潰してはないはずです。笑

「『音楽』に『お笑い』を掛け合わせることで見たことのない未来が描けるんじゃないかと思った」

「いいかねPalette」内にある「音人の階段」

これまでを振り返ったときに、人生が大きく変わった瞬間ってありますか?
価値観が変わったり、心がすごく動いた瞬間。

いくつかあるなあ。まずはお笑いを始めたときですね。

ちょうどその時期って、音楽で食っていけるようになって、褒められることが多くなってた時期なんですよ。

そこでふと「このまま音楽を頑張ったら未来はどうなるんだろう」って考えたんです。

僕はアーティストというよりも作曲家なので、「この道をずっと進んでいくと、久石譲や坂本龍一がいる場所に辿り着くだけ。面白くないな」って思って

あ、もちろん2人がすごくないわけじゃないですよ。笑

なんとなく、未来が予測できてしまって、もういいやってなったんです。

そこで一回鬱になって辛くなって自殺しかけるんですよ。

あっけらかんと「自殺」って・・・
それほどまでに思いつめてたんですね。

そんなときに相方に誘われて、お笑いの世界に入りました。

NSC(吉本興業の養成所)では、ネタ見せの授業というものがあって、同期の生徒の前で1組ずつネタをやるんですよ。

僕と相方で「これは面白いやろ」って考えて一生懸命作ってきたネタが全然ウケない。入ったのが27〜28歳の頃なんで、年下の先輩にボロカスに言われ、「早く帰れよ!」って椅子蹴られて。

「なんでこんな思いしよるんやろ、別にこんな思いしなくてもいいはずなのに」って毎日思ってました。

でも周りが一年も経たずにNSCをどんどんやめていく中で「ここでやめたら本当に意味ないな」って思って、頑張ったんです。

するとある日、ネタ見せの授業でドンってウケて、それがめちゃくちゃ嬉しくて。その「ドン!」でお金もらえるわけじゃないし、SNSで自慢できるわけじゃないんですけど、でも、ただただ嬉しいんですよ。

そうなった時に2つ思うことがありました。

ひとつめは、「幸せの感覚」というのは「ハードルに対する満足度」だということ。

ここに器があるとしましょう。そこに”幸福のもと”みたいなものを注いでいくんです。人によっては、それが愛情かもしれませんし、お金かもしれませんし、他者からの承認だったりするかもしれません。
それが溢れた時に幸福を感じ、足りなかったら不幸って思う器です。

それを、小さい器にすればちょっと幸福のもとを注ぐだけで幸福になる。でも、幸福のもとを入れ続けていくと、ゴムみたいに伸びていくんです。

器がビヨンビヨンに伸びたら、いくら幸せのもとを注ぎ込んでも満タンにならない、ということですね。

そうです。だから、側からみてると栄養過多なくらいめちゃくちゃ幸せを注ぎ込んでるはずなのに、本人は不幸せな状況ってよくあると思うんですよ。

僕の器は音楽の仕事で一度大きくなりすぎてたけれど、お笑いでぎゅっと小さくなっていました。

器が小さいから、たった数十人にウケるだけでめっちゃ嬉しいんですよ。

「幸せってなんだろう」ということが肌で感じられ、理解できました。

もうひとつの気づきは何だったんでしょう?

音楽の仕事への影響です。

お笑いの先輩に頼まれて音楽をつくるとすごく褒められたんです。

それが「音楽×お笑い」っていう僕のアビリティになりました。

音楽だけだったら限界が見えていたけれど、これにプラスアルファの何かを掛け合わせることで、オリジナリティある人生を描けることに気づいて。

「お笑い」は僕にとって大きな発見でした。

ロバート秋山さんの「TOKAKUKA」は、そんな感覚から生まれたんだと思います。

1個の道を突き進むだけじゃつまらないし、誰かがやっていて想像がつく。

でも、何個も何個も掛け合わせることによって、見たことのないストーリーが未来に描けるんじゃないかって思ったら人生捨てたもんじゃないなって。

いわゆる、パラダイムシフトですね。

そっか・・・その掛け合わせがなければ、私が大好きな「TOKAKUKA」が存在しなかったわけですね。
人生を変えた出会い、お笑いの次は何でしたか?

2つめは死にかけたときです。

僕、7年前くらいに、日々のストレスで精神を病んでしまって、空の太陽がぐーっと近づいてきて、世界が滅びる幻覚を見たんですよ。

その時、親とか友達とかに電話して「今までありがとう」って伝えたんです。

向こうは当然、「お前、何言ってんだよ!!」ってパニックになりますよね。

そのまま倒れてしまったみたいで、目覚めたら福岡から駆けつけた親や友達や相方が周りを囲んでいました。

みんなが「あ!起きた!よかった〜」って言っているのを見て僕、号泣したんです。

生きててよかったというよりは、「生きててよかったと思ってくれる人たちがこんなにいたんだ」って。

さらに死ぬと思った瞬間に人生を振り返って、ひとつも後悔がなかったんですよ。

さっきから話しているように自分で道を選んできたわけじゃないけど、「今までの人生、全部正解やったな」と思えて。

そして今のタイミングで思えるんだったら、天命を全うして一生を終える時も後悔は一つもないはずだと思ったんです。

この先の判断がどれだけめちゃくちゃでも絶対後悔しないと。

「いいかねPalette」をやってみたらと言われた時にやる!と即答したのは、俺は過去に後悔がないから、未来にもないだろうと思えたから。

僕は今、かなりの額の負債を背負っているんですけど、そういうリスクは「いいかねPalette」をやる前から当然わかってました。

結婚もそうです。僕、結婚相手をFacebookで募集して結婚したんです。

本当にヤバい人が応募してきても、結婚しようと思ってたんですよ。なぜなら、僕は今まで人生で一度も後悔してないから。

最初は「うわっ、ヤバいのがきちゃった」って思うかもしれないけど、自分が死ぬときは「ああ、なんだかんだあったけど、こいつでよかったな」って思える自信があったんですよ。

こんな風に、自己肯定力が人一倍あることに気づけたのは大きかったですね。

一度死にかけて、巨額の負債があって、結婚相手をFacebookで!?
非常に強烈でついていけてないんですが。笑
死にかける経験というのは、どんな感覚なんでしょうか?

「オプションでもらった命だから、燃やし尽くそう」

「良いも悪いも何かしら世間にインパクト与えて死にたい」

そんな感覚を持ってますね。

基本的に社会に対していつでも殺すなら殺せって思ってるんですよ。

あ、でもね、子供が生まれてやっぱり死んじゃだめだなって思いました。これが価値観を変えた3つ目の出来事かな。

お子さんがいらっしゃるんですね。
今おいくつですか?

8ヶ月ですね。

子供が生まれて、ストーリーの主人公が自分じゃなくなった感覚があるんです。

僕は、主人公を引き立たせるための大事なサブキャラです。

今の一番の興味は「子供をどうカスタマイズするか」なんですよ。

どんなオプション品をつけて、どんなアビリティを与えて、どこの荒野に放り投げるかって。

最近はどの国が冒険にふさわしいかな〜って考えてます。

子供が生まれると、「自分の人生」ではなくなる、と。

だって、人類全体を見た時に、僕と僕の息子と、どっちが重要かっていうと、それは息子でしょ?

僕はすでにひとり子孫を残してるけど、息子の子孫は0人で、今から60年後生き残ってる可能性が高いのは息子なんですよ。

だから種の保存の観点からすると、僕の方が価値が低い

子供を守るために、線路に飛び込んで助けるってあるじゃないですか、あれ、昔怖くてできないんじゃないかって思ってたんですけど、今ならちょっとわかるんです。

僕はこの世が、ものすごいリアリティを持った3Dゲーム空間だと思ってるんですよ。

同じ空間で生きてるように見えて、人それぞれプレーしているゲームのソフトが違うんです。

羽生善治は「将棋ゲーム」、与沢翼は「ザ・マネーゲーム」、アフリカの原住民は「ザ・サバイバル」、アイドルは「ザ・スターアイドルプロジェクト」。

僕はずっと「ザ・バンドマン」とか「ザ・サウンドディレクター」っていうゲームソフトが入っていたんですけど、今は変わりました。

どんなゲームをプレーされてるんですか?

戦略ゲームで例えると「信長の野望」ですね。

プレイヤーを自分のコントローラーで動かして銃を打ちまくるゲームじゃなくて、「信長の野望」みたいに全体を見ながら、時には指揮者、時にはプレイヤーになって現在の状況を動かしていくゲームをプレーしてるんです。

田川とか日本とかを俯瞰しながら戦士たちを作って、ここに置いたら人が集まるとか、弱ってきたら食料を補給して・・・とか。

もう一つ上のレイヤーでいうと、例えばチェスなら、最強のチェス駒になるためにやってきたけど、チェスのルールってこれでいいんだろうか?とか、そもそも別のゲームだったらどうなるんだろうっていう視点になったとも言えますね。

なるほど。誰かが作ったゲームをプレーしてきたけれど、お子さんが生まれてレイヤーが変わったんですね。


人生を大きく変えた3つの出会いについて語ってくださった樋口さん。

ゲームのようだというこの世界を、樋口さんは具体的にどう見て、どう生きているのでしょうか。

後編で詳しく伺いました。

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